或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第二章 その2

次の日、僕は講義を受ける目的で大学へ行った。と云うのは、一週間の内、僕が唯一楽しみにしている講義[法社会学]があるからだ。何故、この講義だけ興味 があるかと言うと、入学当初に、必須科目の他に選択科目と云うのがあって、単位を取るために何種類かの内からいくつか講座を選ばなければならないのであ る。一度選んでしまったら変更が出来ないので、試験的に講義を受け、その中から自分が興味を覚えたものを選び大学へ届ける、と云うシステムになっている。 その試験的に受けた科目が[法社会学]で担当の教授、確か大村教授だったと思うが、その教授の最初の講義に珍しく感銘を受けたからである。大体こんなよう な話だったと思う。[君達は法学部の学生ですから、法律を学びに我が校へ来たと思いますが、法律とは一体何でしょう?理解していますか?どうも、最近は勘 違いしている処が多くて困ります。法律が社会を作っていると、思われているふしがあります。そうではないんです。そもそも法律を作っているのは社会なので す。例えば具体的に申し上げますと、少々下品で申し訳ありませんが、立ち小便をすることは、軽犯罪法で禁止されていますね。この中にも何人か女性の方がい らっしゃいますが、女性諸君はしたことはないでしょうが、男性の方は、今までに一度もしたことがないと云う人はいないでしょう。かく云う私も、今までに数 え切れないほどやりました。で、本来は罰せられるべきですが、未だかつて罰せられた事は一度もありません。と云うことはですね、立ち小便をしてはいけな い、と云う法律自身は全く存在価値がない訳です。少し眼を広げてみて下さい。戦争が始まれば平気で人を殺しますよね。それを緊急避難とか何とか言ってただ 誤魔化している部分もありますよ。政治資金規制法や食管法なんて云う法律は、最たるサル法です。社会の環境や潮流や価値観の変化などで、法律も変えていく べきなのです。新しく作るのも勿論大切ですが、古く合わなくなったものは、勇気を持ってどんどん廃棄する事も大切です。そう云うような事をこの一年かけ て、諸君と勉強していきたいと思っています。ですから、司法試験を目指している人には、何の役にも立ちませんから、時間の無駄だと思います。]
僕はノートを取りながら、かなり集中して講義を受けていた。誰かが肩を二、三度叩くので、振り返ってみると熊沢が立っていた。僕は席を一つずらして、熊沢を座らせた。
「伊達、いやに熱心にこの授業だけは出るんだなぁ。」
と小声で言った。
「うん、結構面白いんだよ、この講義。」
「もういいだろう。出ようぜ。」
「後30分位だから、お前もここにいろよ。」
「いやだよ。それじゃ、ハイライトで待ってるから、終わったら来いよ。」
と言って、熊沢は教室を出ていった。授業を終え、ブックバンドで本やノートを留め、それを肩から掛ける様にしてハイライトへ行ってみると、熊沢は脇にマンガの本や週刊誌を山積みにしていた。
「おい。」
と声をかけると、
「遅かったじゃないか。退屈したよ。」
「わるい、わるい。」
と言って、熊沢の向かいへ座り、愛想の良いウェイトレスにコーヒーを注文した。
「伊達。変な事を聞くが、お前童貞か?」
「何だよ、急に。バカだなあ。変な事を聞いて。」
「実は俺女知らないんだ。十九にもなって。もうすぐはたちだぜ。あと二ヶ月もしたら。お前どうかと思って。」
僕はドキッとした。(実は俺もだ)と、言いたかったが見栄を張り、
「知らない事はないが、お前この間のブルーフィルムを見て、妙な気分になってんじゃないのか?」
「違うよ。もっと前から悩んでいたんだ。俺だけじゃないかと思って。お前も童貞だったらいいなぁ、とか思って。やっぱりお前は経験あるのか。どんな具合だった。なぁ、どうだった?」
「そんなに多くはないけど、高校の時、足を怪我して入院したんだけど、その時の看護婦と仲良くなってね。彼女年上だったし、リードしてくれたけど、最初は上手くいかなかったよ。」
怪我をしたのは本当だったが、後は希望的観測を作り話に変えて話した。
「そうだろう、そうだろう、最初は上手くいかないって書いてあったよ。おい、今日トルコへ行かないか?付き合えよ、俺に。」
「バカ、俺いやだよ。それに金もないし。少しは下調べもしておかないと。」
「じゃ、今日下調べをして、明日行こう。なあ、頼むよ。金なら何とかするからさ。」
と、云う事になってしまった。熊沢は伊豆の下田の出身で、父親は歯医者をしている。入学当初、大学を辞めてやっぱり歯学部を受け直そうかな?と言っていた が、僕達が、せっかく中央へ入ったんだから司法試験をやるべきだよ、などと無責任な事を言って、おだてたものだから、この頃は大学を受け直す事は言わなく なっている。結局熊沢は、卒業してからもう一度他の大学の歯学部に入学し、現在は父親の後を継いで下田で歯医者をやっている。
コーヒーを飲み終え僕達は下調べをすることにした。先ず近所の本屋へ行ってみたが、そんな情報のある本も雑誌もなかった。どうやって調べようかと相談した 結果、電話帳がいいと云う事になり、電話ボックスを探して男二人で中に入った。職業別電話帳を繰って、風俗業という欄を捜した。トルコ風呂は、正式には特 殊公衆浴場と云うらしい。どうせ行くのだったら江戸文化の香りする、吉原がいいという事になった。台東区にある特殊公衆浴場を捜し、ニ、三軒ピックアップ し、名前と電話番号を控えた。どちらが電話をするか、じゃんけんで決め、負けたので僕がする羽目になった。[ダンヒル]と[大奥]に電話してみたが、料金 もさほど変わらず、余り下調べにはならなかった。その日は熊沢も途中下車しないで、まっすぐ桜台へ帰った。僕はいつもの通り、おじさん処で食事を済ませ、 風呂屋へ行き、多少念入りに洗い、椎名町の駅からアパートへ帰るまでの間に買った、新しいパンツをはいた。
次の日僕は大学へは行かず、熊沢が来るのをアパートで待った。約束の6時よりも30分も早く熊沢はやって来た。おじさん処で軽く食事をとって吉原へ向かっ た。昔の若者もこんな気分で行ったに違いない、などと思いながら。特に今日は僕にとっても、熊沢にとっても、記念すべき[筆下ろし]の日だもの。(熊沢は 僕が始めてだと云う事は知らないが)熊沢は浮き浮きした気分で、妙にハイで張り切っていた。しかし、僕は不安が募る一方だった。金の方は熊沢に15000 円借りて持ってはいるが、得体の知れないプレッシャーを感じていた。下調べをした[ダンヒル]へ行くことにした。
「ヘイ、いらっしゃい。」
威勢のいい兄ちゃんの歓迎の挨拶。入り口で入浴料参千円也を払い、小さな待合室で行儀良く待っていると、薄いグリーンのスケスケのネグリジェを着た女性がやってきた。
「どっち?貴方?」
熊沢は、
「お先に。」
と、にやっと笑いどこかに消えた。僕は逃げ出したくなったが、逃げる時間はなかった。すぐ別の、薄い紫色のネグリジェを着た女性が来たからだ。
「どうぞ、こちらへ。」
と言われた。
[ええい、度胸を決めて。もう・・・・・ナスガママ、・・・・・・・キュウリガパパ]
着いた処は、セミダブル位のベッドが一つあり、ガラス張りのむこうには大人が二人入れるかどうかの、バスタブがある個室になっていた。
「お宅、学生さん?始めて?」
「はっ、はい。」
(どこかで聞いたセリフだなぁ)
「それじゃ、60分壱万円。延長30分五千円だけど、どうする?」
「ええ、60分でいいです。」
「そお、わかったわ。そんなに固くならないで。硬いのは下だけでいいのよ。じゃ、そこに服を脱いで。お風呂に入るからね。」
僕は服を脱ぎ、昨日買ったばかりのパンツも脱いだ。彼女は薄紫のネグリジェをとると、もう何も着けていなかった。案内されるまま風呂に入り、洗い場のマッ トの上で前身を洗ってもらった。言われるままに、今度はベッドに行った。僕はキスをしようとした。
「ここはダメ!」
と、彼女は言った。何かの本で読んだが、こう云う商売をしている女性は、他に好きな男がいる場合、唇だけは絶対許さない、と云う事を。(この女性もそうな のかな)人生のドラマを感じながら、真っ白な60分はとにかく過ぎていった。
多分僕の方が早いだろうと、思いながら外に出てみると、果たして熊沢は煙草を吸いながら待っていた。
「おい、どうだった?俺はバッチシ。二回も。癖になりそうだよ。美人だったろう、俺の女。よかった、よかった。俺ももう一人前だ。」
と、はしゃいでいた。僕はあまりの緊張感とプレッシャーで(彼女の名誉の為に付け加えておくが、彼女は色々と手を変え品を替え、努力はしてくれたのだが) 役に立たず、初期の目的を達成できなくて、すっかりしょげ返っていると云うのに。
「まあ、あんなもんかな。お前二回もかよ。俺は一回だけだったけどね。」
と、精一杯の強がりを吐くより仕方がなかった。椎名町へ帰っても、そのショックからはなかなか立ち直れず、その夜は、朝まで深夜ラジオを聞いていた。しら じらと、夜が明け始めた頃、うつらうつらとしたようだった。隣の6帖の部屋では、本当に憎らしいほど平和な顔で、浩一は眠っていた。
(悩みがないのか?こいつは!)


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