或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第一章 その2

部屋に戻ってもこれといってする事がないので4日ぶりに風呂へ行くことにした。風呂桶とタオルと石鹸を持って、下駄を履き、(風呂屋へ行く時は必ず下駄を 履くことに決めている)若旦那になったつもりで、颯爽と暖簾をかき分け、30円を小粋に番台の上に投げ捨てるように置いた。早い時間だと夜の勤めの女性が 風呂に来ている事もあり、ラッキーだと番台から見える事もしばしばあった。1時間程かけて髪も身体も2回どうり丁寧に洗い、風呂から帰ったが又することが ない。
[そうだ、あいつに電話してみよう]
あいつとは、江田久美子のことである。何故知り合ったかと云うと、実は何を隠そう、僕は華道部に入っているのだ。
ここで、少し僕の自己紹介をしておこう。僕の名前は伊達省吾と云う。中央大学の法学部に今年4月、1年間の浪人生活(浪人生活は京都でしていた)を経て、 無事入学し、本当は落研(落語研究会)に入る予定であったが、隣のバザーに可愛い美人が沢山いたので誘われるままついつい華道部に入ってしまったのであ る。流派は草月流らしい。生まれたのは岡山県の邑久郡と云う風光明媚な処で、両親は魚の運送業をしている。幼少のみぎりまだ字も読めない時、母親がかぐや 姫の物語を聞かせてくれて、それをたまたま1回で丸暗記をしたものだから、親戚じゅう大騒ぎになり、天才だとか、神童だとか言われた事があった。が、それ も大きくなるほど化けの皮が剥がれ、成績も下がり今日に至っている。
財布とアドレス帳を持って、200メートル程離れた公衆電話へ急いだ。
「もしもし、すみませんが105号室の江田さんお願いします。」
彼女が住んでいるアパート、みどり荘にはピンクの共同電話が設置してあり、ベルを聞いた誰かがその電話に出て、相手を呼び出すと云う仕組みになっている。それでも電話があるだけましである。
「もしもし、留守のようですけど。」
まことに無愛想な女の声が返ってきた。
「済みません、ありがとうございました。」
と、言い終わるか終わらないうちに、受話器に冷たい音がし、切れた。
[チェッ!]
仕方がないからパチンコでもすることにした。椎名町の駅前には2軒の店があり、僕はよく行く天国会館に行った。当時はまだ左手で玉を入れ、右手でバネを弾 くと云う台がほとんどだった。この間、吉田が左手を使わず、右手だけで打つ新しい機械の入ったパチンコ店を見付けてきて、行こう行こう、と言うものだから 行ったが、[これは素人のパチンコだ。]と云う事になった。左手で玉を入れ、腰と足でリズムを取りながら、右手で打つ。これこそパチンコの真髄である、と 思い込んでいた。そこそこ出たので缶詰やチョコレート等にかえて、もう一度江田久美子に電話をしてみた。今度は運良く彼女が電話に出た。
「はい、みどり荘です。」
「あのう、もしもし、江田さんお願いしたいのですが。」
「江田ですけど、どちら様ですか?」
「先日はどうも、伊達です。」
「あら、伊達さん、何でしょう?」
「今から、そっちへ行ってもいいですか?」
「困ります。今から食事を作るところですし…」
「いいじゃないですか。お土産持って行きますから。」
「困ります。また今度にして下さい。」
と言って電話は切れた。僕は一瞬怯んだが、とにかく居るのだから行くことにした。随分あつかましい話である。実は告白すると、彼女のアパートへは、丁度一 週間前に行った。どういういきさつだったかと云うと、お華の稽古が終わった後、みんなでお茶を飲もうと云うことになり、御茶ノ水の駅前のウィーンと云うク ラッシック喫茶へ行ったのである。そこであちらこちらで始まり出した学生運動のことや、秋にある関東華道連盟の華展の事や、話題の映画についてとか、色々 と話し合って帰る事になった。ほとんどは国鉄の中央線を利用しているが、僕と彼女ともう一人、倉橋さんだけは、地下鉄丸ノ内線を通学に使っていた。その倉 橋さんも茗荷谷で、[お先に]と言って降り、二人きりになったのである。
「江田さんは北海道だったね、出身は。」
「ええ、そうよ。伊達君は岡山よね。」
「うん、景色の良いところでね。それに魚もおいしいんだ。」
「北海道もおいしいわよ、魚。」
「江田さんは自炊してるんですか。」
「ええ、まあ。」
「もう遅いし、何処かで食事しませんか?」
「そうね、それじゃ私の住んでる北池袋の駅の近所に良い店があるから、そこでします?」と云う事になり、食事中も話が合い、そのままずるずると、彼女の住 んでいるみどり荘へ行ったのである。話が合いと言ったが、実は合わしたのである。以前から、女の一人住まいのアパートの部屋とは一体どんなものか、見たく て見たくて仕方がなかったのである。実現したのだから、内心はかなり興奮していた。彼女は文学部の一年生で、浪人をしている僕より年は一つ下である。肌の 色は北国の出身らしく白く、小柄でぽっちゃりとした、なかなかの美人である。
後ろめたさを多少感じながら、みどり荘の彼女の部屋のドアを、[コン、コン]とノックすると、
「どちら様ですか?」
「ああ、すみません、僕です、伊達です。」
ドアを開けてもらえないかと思っていたが、ドアが開き、
「早く、早く入って下さい。」
と、僕を急き立てた。そんなに歓迎される訳がないのに、と思いながら靴を脱いだ。もう一つ告白すると、前にこのアパートへ来た時に、少々強引にキスをして しまったのである。次の行動に移ろうとした途端に、するりと彼女に逃げらればつの悪い間を、何秒か過ごしたのである。それからは、話もかみ合わず、早々に 退散したのであるから、歓迎などされる筈はないのである。
「これ、電話で話したおみやげ。」
「パチンコの景品ね。でもありがとう。ご飯は一人分位しか炊いてないけど、家から送ってきた干物があるので、それで良かったら食事しますか?」
「ああ、しますします、感激です。こんな食事なんて何ヶ月ぶりかな。」
「普段はどうしているの?」
食堂のおじさんの話をすると、なるほどとうなづいていた。彼女の部屋は8帖位あって、横に2帖程の台所がついていた。何よりも驚いたのは、テレビがある事 である。家庭にこそテレビはあったが、学生が持てるほど安くはなかったし、又、必要でもなかった。従兄弟の浩一は、この夏バイトをしてテレビを買うと張り 切っていたのを、思い出した。色々と楽しい話をして、その日は何事もなく、9時頃帰った。帰り際に、
「また来てもいいかな?」
と聞いてみると、
「私は構わないけど、回りが何かとうるさくてね。」
と、久美子は答えた。そうか、僕はまあまあ気に入られているのか、問題は近所回りか、と思いキスが出来た一週間前よりも、嬉しい気分で桜荘に帰った。

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