或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第五章 その1

結局猪山は一度も帰省せず、あれから又別のバイトをしていたらしい。今度の見つけてきた新しいバイトは、1日3千円という凄いやつだった。但し夜の8時か ら次の朝の5時までという、大変ハードなものだった。僕は、一週間だけ行こうか、と云う事になった。仕事は製本だった。PM10時から15分、午前0時か ら45分、AM3時から15分の休みがあるにはあったが、覚悟していた以上にきつかった。次から次へと流れてくる本の製本をしたり、目一杯荷車に本を積ん で別の場所に移動するのが主な作業だったが、昼と夜が逆と云うのは、これほど人間の体にこたえるものかとつくづく実感した。僕は、自分の肉体を極限近くに まで痛めつける事で、明美の事を忘れようとしていた。これ位の罰では軽すぎるだろうが、少しは罪滅ぼしになるかも知れないと、自己弁護をした。
9月になると、故郷から帰ってきた学生達で、キャンパスにも再び活気が戻ってきた。久しぶりに、吉田、熊沢、猪山と僕の豪華メンバーが揃い、近くの雀荘で卓を囲んだ。
「お前達、今度のナイトラリーに出場しねえか?」
と、リーチをかけながら熊沢が皆を誘った。熊沢の話によると、秋の文化祭の行事の一つに、夜の8時に大学を出発し、50キロを歩いても走ってもいいから、 とにかく走破し、又大学に戻ってくる、と云う催しがあるらしい。猪山は金にならないから嫌だと言い、吉田はかったるいから嫌だと言うので、僕が付き合うこ とにした。その日は9月28日だそうで、まだ3週間近くある。少し足腰を鍛え、トレーニングでも積もうか、などと熊沢と話し合ったが、結局何もせず当日を 迎える事になった。吉田と猪山がスタートの地点に来て、[せいぜい頑張れよな][心の中で応援してまっせ]などと、冷やかして帰って行った。周りを見渡す と、5百人位いただろうか、女子学生もかなり混ざっていた。食べ物や飲み物を、入れたリュックを背負った者も多くいた。熊沢が不安そうに、
「おい、伊達。俺達も何か食い物かジュースでも、持ってきた方がよかったんじゃないのか?」
と心配そうに言うので、
「大丈夫だよ。中間点の東中野の休憩所へ、彼女が、おにぎりとお茶を持ってくるようになってんだから。安心しろよ。」
「本当に持ってくるんだろうな。彼女、小金井だろう、知ってんだろうな、ちゃんとした場所。」
「この間会った時、地図、ちゃんと渡しておいたから、間違いないよ。」
豪砲一発、勢いよくスタートした。中間点までは、小走り状態で到着した。百合が僕達を見付けて、
「伊達さん、ここよ。」
と言って手を振りながらやって来た。
「すごいわね。今なら完全に百番以内よ。大丈夫?疲れてない?」
「うん、ちょっと疲れたけど、思っていた程じゃないよ。ああ、こいつ熊沢。こちら柿沼百合さん。」
簡単に紹介をし、百合が作ったであろう、おにぎりを熱いお茶で流し込みながら食べた。卵焼きとか、ウィンナとか、ほうれん草など全部たいらげ、15分程で再び出発した。
「気をつけてね、余り無理しないで。これジュース水筒に入れておいたから、また飲んでね。それじゃ、頑張ってね。」
「うん、ありがとう、じゃあまた。」
百合に見送られながら、勢い良く再スタートした。
「おい、話には聞いていたが、彼女美人だなあ。うらやましいなあ。もうやっちゃったのか?」
「バカ、まだ、手もつないでないよ。」
「本当かよお。」
(よくよく考えてみると、そうだなあ。最初のデートの時、軽く腕を組んだだけで、何にもないなぁ)
再スタートして5~6キロ走っただろうか、最初のガクンがやってきた。
「おい、ダメだ、腹が痛い、休もう。」
と僕が根をあげた。
「しょうがねえなあぁ、全く。」
熊沢がぼやいた。僕らは舗道の縁石に腰を降ろした。それが決定的に悪かった。2~3キロ行っては休み、2~3キロ行っては休みの、連続になった。前半に追 い越していった女の子達に、[お先に]と今度はドンドン抜かれていく。落後者を拾っていく自動車が、おふくろのように思えてきた。午前2時。残り10キ ロ。
「おい、どうしよう?あれに乗るか?」
情けない声で熊沢が言う。
「それもしゃくだなぁ。ペース配分を考えりゃよかったなぁ。」
「今更そんな事言ってもしょうがないよ。ジュースもないし、どうする?」
「もうちょっと行ってみようか?」
Ⅰ~2キロ行っては休み、1~2キロ行っては休み、になった。それでもようやく、後3キロの標識が見えた。突然、熊沢が、
「おい、伊達!俺の顔を殴れ!」
と言い出した。気が狂ったのかと思ったがそうでもないらしい。
「おい、本気だ。俺の頬を殴れ。早く!」
と叫んだ。僕は立ち上がり、思い切り熊沢の頬に平手打ちをくらわした。熊沢は、今度はお前の番だ、と言って、僕に平手打ちを、それも2発くらわした。僕達 は自然に肩を組み合い、2人3脚のように、いち、に、いち、に、いち、に、と声を掛け合いながら進んだ。夜がしらじらと明け始めてきた。それでもいちに、 いちに、いちに。午前5時過ぎ、二人はゴールに倒れ込み、そのまま大の字になった。
「おつかれさま、これ、完走バッチです。」
と言って、係の女の子が、小さなバッチと紙コップに入ったコーヒーを手渡してくれた。無言のままコーヒーをゆっくりすすった。ちらっと熊沢の横顔を窺う と、朝の陽光に、キラッと光るものがった。僕も一すじ涙が頬から顎を伝って、アスファルトへ落ちた。(ありがとう、熊沢。お前は本当にいいやつだ。お前に 巡り合っただけでも、大学に来た甲斐があったよ)僕は心の中で叫んだ。足を引きずりながら、僕は椎名町のアパートへ、熊沢は桜台のアパートへ帰った。それ から、2~3日はまともに歩く事が出来なかった。それもそのはずである。足の裏には、直径3センチくらいの豆が3つか4つ、出来ており、爪も2~3枚割れ ていて風呂にも入る事が出来なかった。


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