或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第四章 その2

何事もなく一週間が経った。この前の日曜日、百合の家へ行った帰り、駅までの道すがら、
「ねえ柿沼さん、一つ提案があるんだけど。」
「なあに?」
「毎土曜日を二人のデート日にしたいなあ、と思っているんだけど、ダメかな?」
「いいわよ。で、どうするの?」
「例えば、今週の土曜日なら、今ここで、時間と場所を決めておいて、後はその都度、次の土曜日は何処で、何時、と云うふうにすればどうかな?」
「なるほどね。この土曜日はどうするの?」
「そうだな、新宿西口、1時半ではどう?」
「新宿西口、1時半ね。OKよ。」
僕は、1時半少し前に西口に行った。百合はもう来て待っていた。高野でお茶を飲みながら、百合は、
「伊達さん、あれから直ぐに連絡したい事があったのよ。」
「なあに?」
「私、貴方に連絡取りたい時、どうすればいいの?電話はないの?」
「そりゃそうだな。僕は連絡取れるけど、君は取れないものね。一週間の内には、お互い都合が悪くなる事だってあるものね。ごめんごめん。急な時は一階の食 堂のおじさんとこへ電話して貰っていいですよ。番号わね、ええっと、…548の1895。」
「わかったわ。548の1895ね。手帳に書いておくわ。」
「ところで、なあに、話って?」
「それがね、父の転勤が急に決まっちゃって。」
「ふうん、どこへ?」
「遠いの、外国なの。ニューヨーク支店。」
「ニューヨークか、かっこいいなあ。」
「なに言ってんのよ、家族は大変なのよ。父の会社はね、国内は構わないんだけど、海外は単身赴任はダメなの。弟達はこの夏休みの間に向こうへ行って、ハイ スクールの入学手続きをするそうよ。私も母もそのうち、ニューヨークへ行かなければならないの…」
「そのうちって、いつ頃?」
「はっきりは分からないけど、私は、大学を卒業するまで日本にいたいのだけど、そうも言ってられないらしいの。早ければこの秋、遅くても来年の春には…母 だけ向こうへ行って、私一人残ってもいいんだけど、それは父も母も反対しているし……」
その時僕は、余り事の重大さを認識していなかった。
「ニューヨークか。僕も付いていこうかなあ。大学なんてやめちゃって。」
「なにのんきな事言ってんの。ところでもうすぐ夏休みでしょう。どうするの伊達さんは?」
「どうしようかな?全然考えてないんだ、田舎へ帰ってもしょうがないし、バイトでもしようかと思ってるんだ。」
それから、僕達は、映画を観て、又お茶を飲んで別れた。
椎名町のアパートに帰ってみると、浩一は旅支度をしていた。
「どうしたんだ。どこか旅行にでも行くのか?」
と尋ねると、明日、田舎に帰るのだ、と言う。授業も後ほとんどないし、帰って田舎でバイトをするのだそうだ。[お前はどうするのか?おばさん(僕の母)に どう言っておけばいいのか?]などと聞くので、[そのうち帰る。適当に言っといてくれ。]と答えた。お湯を電気ポットで沸かしインスタントコーヒーを飲み ながら夕刊を読んでいると、戸がガラガラと開いて(カギなどかけたことがない)猪山が入ってきた。
「おお、猪山久しぶり。元気か?コーヒーでも飲むか?」
「うん、もらう、もらう。お前達どうするん?夏休み。わいは帰っても邪魔者やさかい、こっちでバイトしよう、思うとんやけど。」
「浩一は明日帰るらしい。俺はまだ何にも決めてないけど、ええバイトあるのか?」
「そんなら、わいと一緒にせえへんか?ええとこ探しとんや。」
と云う猪山の話を聞き、早速次の日面接に行く事にした。そのバイト先と云うのは、僕も時々行った事がある、名曲喫茶ウィーンだった。簡単な面接を受け、よ かったら今日からでも働いてほしい、と言うのでそうすることにした。ボーイ服を着せられ、オーダーを聞いたり、ドアボーイをしたりで、結構きつく、終わる 頃には、足がパンパンに張っていた。それでも当時としては、時間給270円は魅力だったし、ウェイトレスの明治から来ている慶子や、早稲田の晶子達との会 話も楽しかったし、一週間もすると三本の指でトレイが持てるようになったりで、結局一ヶ月余り続けた。唯一つ気に入らなかったのは、バーテンが威張り散ら すことだった。ウィーンは地上6階、地下2階になっていて、ツウフロア毎に一つの調理場があり、バーテンが一人か二人いる。そのバーテンが曲者だった。声 が小さかったり、態度が少し悪かったりすると、ねちねちと小言を言う。素直に[ハイハイ]と聞いておけば良いのだが、言い返そうものなら、僕達ボーイや ウェイトレスが伝えたオーダーをなかなか作ってくれず、お客には[まだか]と、文句を言われるし、散々なめにあった。余りひどかったので、遅番の時、終わ るのを見計らって、掛け合った。あわや殴り合いのケンカになりそうになった時、1階にいたリーダー格の、新さんと云うバーテンが中に入り止めてくれた。そ れを契機に僕とその新さんが仲良くなったものだから、他のバーテンも僕を苛めなくなり、居心地も良くなった。このバイトの楽しみの一つに閉店後の掃除が あった。掃除自体は面白くもなんともないが、椅子の後ろや、テーブルに隠れて、小銭が落ちている事があり、それを見つけた瞬間は何とも云えない快感だっ た。


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