或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 小説集


椎名町にて候 ~おき去りにした青春~ 北見俊介 著

第三章 その1

久しぶりな気持ちで、桜荘に帰ってみると従兄弟の浩一が、
「お前、何処に行ってたんや?おばさんから手紙がきてるぞ。」
小姑根性の目付きで僕に封筒を突き出した。浩一と僕とは家も近くだった事もあり、幼い頃からよく遊んだり、母方の実家では一緒になったりする事も多く、気 心はよく知れているつもりだった。でも、いざ同棲生活も3ヶ月近くになると、色々とあるものだと感じ始めていた。夫婦の離婚も以外とそんな処に原因がある のかも知れない、寝起きを共にすると云う事は、こう云う事なのかな、と思ったりもした。母からの手紙はありきたりの内容だった。父や妹の近況報告から始ま り、手紙も電話もしない僕を少し責め、夏休みになったら出来るだけ早く帰ってくるように、で締めくくってあった。封筒の中には、壱万円札が一枚同封して あった。女装して新宿の街を歩き回ったなんて、とても言えないし、もし母がこの事を知ったら反狂乱になるだろうなぁ、と深い溜め息を吐いた。
次の日、目が覚めると、昼の12時を少し回っていた。どれ位眠ったのか、計算出来なかった。勿論、浩一が何時出ていったのかも知らないし、必須科目のフラ ンス語の授業がある日だと云う事など、覚えているはずもなかった。このまま布団の中にいると、また寝てしまいそうなので、兎に角起きる事にした。歯を磨 き、顔を洗い、配達されたままになっている新聞に目を通しながら、明美との事や、新宿での事がすべて幻で、前世の出来事のように想えた。食事をするため に、おじさんとこへ降りていくと、光岡さんがいた。
「今日学校休み?」
「いいえ、唯何となく、行かなかったんです。」
「うん、そう。この間は面白かった?」
「ええ、まあ。始めてだったもので。」
「栗田さんには参ったよ。我が儘なんだから。伊達君、コーヒーでも飲みに行かない?ひまだったら。」
「ええ。」
と云う事になり、近くの喫茶店へ行った。光岡さんは28才だそうで、秋に銀座のギャラリーで、初めての個展の計画があり、今、制作中らしいが、思うように はかどっていないようだった。専門はポートレートで、特に女性なのだが、プロのモデルは一切使わず、素人の女性に限っているのだそうだ。いいと思う娘はな かなか承知してくれないし、取って欲しいと、言ってくる娘はいいのがいない、とぼやいていた。一枚の写真を仕上げるためには、少なくとも百回以上シャッ ターを切るのだそうだ。僕の頭の中には二人の女性が浮かんだ。一人は明美で、もう一人は柿沼百合だ。二人ともいい被写体になると、直感した。
「明美さんは、モデルとしてどうですか?」
「明美?ああ、ラビアンの明美ね。いいかもね。小悪魔的だし。頼んでみるか、今晩でも飲みに行って。」
「ヌードばかりですか?」
「別に裸にこだわってはいないよ。」
少し安心をした。明美は裸でもいいが、柿沼百合はいやだ、などと随分勝手な想像をした。(そうだ、今晩柿沼百合に電話しなくっちゃ。善は急げだもの)
薄暗くなって、僕は手許にありったけの拾円玉を掻き集め、連盟の名簿から、柿沼百合の電話番号を間違わないように書き移し、近くの公衆電話へ向かった。行 くと若い女性が電話をしていた。イライラしながら煙草を一本吸った。電話を終えた女性は、軽く僕に会釈をした。僕は数字を確かめるように、ゆっくりダイヤ ルを回した。
「もしもし、柿沼でございます。」
「柿沼さんのお宅でしょうか?」
「はい、さようでございます。」
「私中央大学法学部一年の伊達と申しますが、恐れ入りますが、百合さんはご在宅でしょうか?」
「百合でございますか?しばらくお待ち下さい。」
「…………………」
「はい、百合ですが。」
「柿沼さん?柿沼百合さんですか?」
「はい、そうですが?」
「私、先日、あの先週の土曜日、お華の連盟の会議でお会いしました、中央大学の伊達と申します。突然で申し訳ありません。」
「ああ、中大の方ね。代理出席の。」
(しめた。やっぱりあのスピーチが効いている)
「はい、代理の伊達です。」
「ウシマドとかの御出身の方ね。」
「はい。覚えていらっしゃいますか?」
「ええ、名前は覚えてませんが、面白い方がいらしたことは。」
「はい、ありがとうございます。名前は伊達と申します。」
「伊達さんね。それでご用件は何でしょうか?」
「はい、あのう、まことに突然で厚かましいのですが、今週の土曜日あたり、会っていただけないかと思いまして。ええ、一時間でも30分でも結構なんです。でも、できたら3時間位。」
「土曜日ね。何かあったかしら?少し待って下さる?」
「………………………」
「お待たせしました。いいですよ。」
「そうですか、本当に?」
「で、どうされます?」
「何時でも、何処へでも行きます。柿沼さんに合わせますから。」
「そうね。そう言われても、どうしましょう?うん……じゃ神保町の交差点ご存知?」
「ええ、知ってます。」
「その交差点から東へ二つ目の角を、南へ200メートル程行った処に、[メルローズ]と云う喫茶店があります。そこでどうですか?」
「いいです。メルローズですね。それで時間はどうされます?」
「そうね。授業が終わるのが12時15分だから、12時半には行けますわ。」
「はい、結構です。12時半、メルローズ、ですね。」
「でも、私、あなたの顔、悪いけど覚えてないわ。わかるかしら?」
「ええ、僕はよく覚えていますから、大丈夫です、その点は。それでは楽しみにしています。」
「はい、分かりました。では、失礼します。」
「おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
受話器を置くと、残った拾円玉が取り出し口に、ジャラジャラと落ちてきた。僕はそれを持ち帰るのも忘れて、心はスキップをしながら桜荘へ急いだ。


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