或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 エッセイ集


2013年02月


  106.Are You Happy? ~ブータン王国の旅~

ブータンは、東経90度北緯26度に在り、ヒマラヤ山麓に慎ましやかに位置する王国である。沖縄と同じくらいの緯度であるが、標高が高い(ほとんどの地域が1,500m~3,000m)ため、夏場でも気温が30度を超えることはなく、逆に冬も最低気温が-3度を下回る日は少ない。
国土の面積は、ほぼ日本の九州に匹敵し、人口は70万人くらいである。首都の「ティンプー」と、唯一の国際空港がある「パロ」、そして古都「プナカ」の3都市が主要都市で、そこに人口も経済も文化も集約されている。主な産業は農業で、他はビール工場があるくらいで、水力発電で起こした電力をインドに売却し、外貨を獲得している。
言語は「ゾンカ語」(いわゆるブータン語)で、英語も公用語になっている。近年は小学校から英語に親しんでいる(例えば1日6時間授業のうち4時間を英語で授業を行う)ため、30代以下のほとんどの人が英語に堪能である。
1907年に『ウゲン』がそれまでの小王国を統一して初代国王に就いてから、昨年日本を訪れた国王(正式な名前は『ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク』)で5代目に当たる。
2008年までは「肯定的な鎖国」を行ってきたが、新国王の下、議会制民主主義による立憲君主制に体制が移行された後は、観光客も積極的に受け入れ、観光事業も外貨獲得の一つになっている。しかしながら、政府主導による観光事業で、基本的にはガイドの付かない観光は認められていない。
4代国王の時、国民一人ひとりが日々幸せだと感じて暮らせることを目指す『国民総幸福量』(いわゆるGNH)を提唱し、それが今日まで受け継がれ、世界から注目を集めている。その基本理念は、①経済の発展 ②良い政治をする ③宗教心を持つ ④環境を守る の4つである。

2012年7月22日、姫路発のシャトルバスで関空に向かう。ブータンにはバンコクで一泊し、次の日の早朝(午前6時50分)、「ドゥルクエア航空」(ブータンの唯一の航空会社)で、インドのグワハティを経由し(30分待機)、ブータンの玄関口パロに到着するルートしかない。
今回は、バンコクで成田からのもう一人のツアー客と落ち合って、ホテルに向かう段取りになっていた。待ち時間が少々あったので、本でも読もうと思い、バックから老眼鏡を取り出そうとしたが見当たらない。私は機内に忘れたことに気付き、迎えに来ていたドライバーに相談し、バンコク空港の忘れ物係へと向かった。成田からのツアー客(以下佐藤氏)も到着したが、事情を説明し、待ってもらうようにお願いをした。あちらこちらをたらし回しされた後、1時間程かかって、やっと手元に戻った。
佐藤氏に謝ったが、少々不機嫌そうだった。後に親しくなってから、その時のことを聞いてみると、「何てとろい、いい加減な人物だ」と思ったそうである。彼の性格からすると、「とんでもない人間と、これから1週間を過ごすのか」と、随分気が重かったと推測される。

モーニングコールは午前3時30分。昨夜、夕食を済ませてホテルにチェックインしたのが午後9時30分頃だったので、少々睡眠不足である。
バンコク空港を出発し、パロには午前10時30分に到着した。しかし、なにやら空港内が異様な雰囲気に包まれていた。どうやら同じ飛行機に、ブータンの首相が搭乗していたようである。後でガイドの説明でわかったことだが、政府専用機はブータンにはないそうである。首相はもちろん、昨年お見えになった国王も、我々と同じ飛行機で、同じルートで来日されたのである。
タラップを降りて振り返ると、尾翼にブータンの国旗である雷龍のマークが標されていた。佐藤氏は早速カメラのシャッターを押していた。その時点では、彼はかなりミーハーな印象だった。
入国手続きを済ませて空港の外に出ると、ガイドとドライバーが私達を迎えてくれた。白い絹の布を首に巻いていて、「歓迎の印です」と言った。ガイドの名前は「ドルジー」で、ドライバーの名前は「ニマ」と言い、私が想像していたより遥かに流暢な日本語で、案内が始まった。
我々を乗せた車は、山間の道を心地良いスピードで、パロから首都ティンプーへと進んでいく。この日(7月23日)は、国の休日に当たり、いわゆる「良い日」と呼称され、ほとんどの国民が寺院にお参りに行くのだそうだ。
道中、佐藤氏はひっきりなしにシャッターを押し続けている。ふとそのカメラを確かめると、「ニコン」という文字が目に入った。その方面に疎い私でも、良いカメラであることくらいは判る。「佐藤さん、それニコンじゃないですか?シャッターを押す音が好いですね」。彼はよく気が付いてくれたと言わんばかりに、「ニコンD800です。キャノンもいいが、この音はやはりニコンでないとね」。カシャ、カシャ…。心地好いシャッター音が、私の右耳に響く。それから私は心の中で、彼のことを「カメラマン佐藤」と呼ぶことにした。
ティンプーまでは約1時間半の道程である。途中アーチェリーの競技が行われていたので、車を止めてもらい、見学することにした。矢を射る場所から的までの距離は140mだそうで、的はどう見ても直径が1m程の大きさである。5人ずつがチームを組んで、交代で順番に矢を放つ。当たれば祝福の踊りをして称え、外れると鼓舞する踊りで激励するのだそうだ。
どうも若いチームと少し年齢を重ねたチームとに分かれて、競っているようである。どちらのチームが優勢なのか判断できないが、3本に1本くらいの確率で的を射る。我々の肉眼では、遠く離れた140m先の的をはっきりと捉えるのさえ覚束ない。打ち手の視力は2.5位あるとのことである。私も何枚かデジカメで写真を撮ったが、カメラマン佐藤氏は、競技場を移動しながら、ニコンD800でシャッターを切り続けている。カシャ、カシャと…。
アーチェリーの競技場を後にした我々は、ブータンの氏神様と国民から親しまれている『チャンガンカ・ラカン寺院』へ向かった。今日は国民の休日で、多くの人々が寺院へお参りに行く。チャンガンカ・ラカン寺院も沢山の人々で賑わっていた。手にはお花とお供え物を持って、行列をなしている。
全ての寺院の周りを取り囲むように、「マニ車」が設置されており、参拝者はそれを時計方向に回しながら入り口へと進む。正式なお参りの仕方は「五体投地」であるが、それについては後に詳しく記すことにして、ガイドに教えてもらった略式の方法(頭の上で両手を合わせ、それから胸の前で同じように両手を合わせて跪き、お願い事を唱える)を3回繰り返し、5~10ニュルタム(1ニュルタム=1.5円)の浄財をする。
ブータンは仏教国であり、チベット仏教の流れを組み、歴史的には後期密教に属する。滞在中に数多くの寺院やゾンを訪れたが、その先々で色々な曼荼羅や六道輪廻図と相対した。

ブータンのインフラは、お世辞にも整備されているとは言えない。事前に旅行社からの情報で心構えはしていたが、現実はそれ以上だった。首都ティンプーのホテルは4階建であったが、そのうち1階・2階・4階が工事中で、我々が宿泊した3階のフロアのみが使用されるという状態だった。
食事を済ませてから、ガイドの案内でティンプーの街へショッピングに出かけた。そこで、ブータンの民族衣装である「ゴ」(女性の民族衣装は「キラ」と言う)を買い、家内が要望した手織りのバックを買って、ホテルの自分の部屋に帰ってみると、電気が点かない。日本から用意してきた懐中電灯で照らしながら、色々とスイッチを押してみたが、全く点く気配がない。1階のフロントまで下りて、片言の英語で事情を説明し、部屋を変えてもらった。
少し落ち着いたので、風呂に入ることにした。お湯の温度を調整し、そろそろと思い浴槽に足を入れると、水に近い状態だった。浴槽の上に目をやると、そこにはタンクがあり、説明書らしきものを読むと、「タンク一杯分しかお湯がない」とのことで、要するに「シャワーを使用しなさい」という意味であった。
前日の昼と夜の食事は、日本人向けにアレンジしたブータン料理だった。日本人向けと敢えて記したが、本当のブータン料理は辛くて食べることは不可能である。カメラマン佐藤氏が間違って食した唐辛子は、口の中が燃えて、ビールをコップに3杯立て続けに飲んでも消えることはなかった。
ホテルの朝食はアメリカンスタイルで、中でも目玉焼きが運ばれてきた時には、思わず二人とも拍手をした。「やっと疑わずに食することができる」という安堵感から来る拍手である。
ブータンには合計5泊6日滞在したのであるが、残念ながら食事が美味しいと感じたことは一度もなかった。パロの農家にホームステイをした時には、夕食を済ませた後に、カメラマン佐藤氏に「お夜食を食べませんか?」と、日本から持参してきたインスタント食品を勧めた。佐藤氏は「丸ちゃん狐そば」を、私は「カップヌードル」を、自分達の部屋で食べた。佐藤氏は「ブータンへ来て初めて美味しいものに巡り合った」と、感慨深げに呟いた。

朝8時半、ティンプーのホテルを発ち、プナカへ向かう。事前に旅行社からの案内で、ティンプーからプナカまでの道程は、舗装もない凹凸道で、カーブが多い山道だと知らされていたので、酔い止めの薬を飲んでから出発した。
途中「ドチュラ峠」(標高3,150m)で、トイレ休憩を取る。天気が良い日には、そこからヒマラヤ山脈が一望できるそうだが、あいにくその日は小雨交じりで靄がかかり、見ることはできなかった。カメラマン佐藤氏はたいそう残念がっていた。それでもニコンD800のシャッターを押している。
ふと目を転じると、万国旗のようなものがあちらこちらに、木の梢から地面に吊るされている。道中も目にした光景であったが、ガイドのドルシーに「あれは何ですか?」と尋ねると「ルンタと言って、あの旗には経文が記されており、奉納した本人はもちろん、生きとし生ける全てのものが幸せになるように、という願いがこめられているのです」と教えてくれた。
ドチュラ峠からは下りで、約3時間半をかけてプナカに着く。1955年にティンプーが新しい首都になるまでの300年間、プナカは冬の首都と呼ばれていた。
『プナカ・ゾン』(ゾンとは城砦・行政府・僧院の3要素を兼ね備えた建築物のこと)は、歴史的にも信仰的にも大変重要なゾンで、第1回の国会も、初代国王の戴冠式も、現国王の結婚式も、ここで執り行われた。
ゾンを訪れるとき、男性はゴ、女性はキラを身に着け、身分によって色は違うが(一般の人は殆ど白)、首に絹のストールのようなものを巻かなければ、入室することはできない(ただし、外国人はその必要はない)。
ロペサ村の『チミ・ラカン』を訪れる前に、遅めの昼食を取る。田園の中に在るにもかかわらず、おしゃれなレストラン風の食堂だった。前面はガラス張りになっており、外はウッドデッキで、オープンカフェとしても使用されていた。
昼食後、チミ・ラカンへと向かう。車は途中までしか行くことができないので、そこからは徒歩である。田んぼの畦道や緩やかな登りの山道を、40分ほど歩いてお参りする。チミ・ラカンは子宝のお寺だそうで、夫婦で訪れ、お坊さんに様々な道具を使ってお祈りをしてもらうのだそうだ。また、生まれてきた子供の姓名判断もしてくれるとのことである。
その日の宿泊はロッジ風のホテルで、リバーサイドにあり、なかなか見晴らしのよい清々しい建物だった。

プナカのホテルを朝9時過ぎに出発し、昨日来た道を、また3時間半程かけてティンプーに戻る。途中、道端で地元の農民たちが収穫した野菜を売っていた。車を止め、焼きトウモロコシと瓜を買い求めて食べる。トウモロコシは香ばしく、瓜は瑞々しくて意外と美味しかった。
ドチュラ峠で休息を取ったが、昨日と同じように靄がかかり、ヒマラヤ山脈は望むことはできなかった。ぬかるんで曲がりくねった山道を、車は時々スリップしながら進んでいく。
ティンプーに着いてから昼食を取り、国の記念動物である「ターキン」を見に行く。日本の山羊と牛とを交配したような動物で、愛嬌のある生き物である。
ブータンでは、「生けとし生けるもの全てが幸せになる」という考え方が国民総幸福量だから、当然動物もその範疇に入る。テレビの映像でもよく見かけるが、道路では牛の歩行が優先し、犬もあちこちの通りで寝そべっている。
ブータンには信号がない。もちろん首都であるティンプーにもない。唯一メインストリートの交差点にポリボックスがあり、そこでお巡りさんが手旗で笛を吹きながら、交通整理をしている。日本における「大正ロマン」「昭和初期」の古き良き時代を髣髴とさせるような雰囲気である。
車は日本車を中心に、かなりの台数が走っている。1週間に1日、確か火曜日だと記憶しているが、ノーマイカーデーがある。その規則は厳しく守られており、違反者には相当の罰金が科せられるとのことである。環境に配慮した規則である。
また、街を歩いていると、お坊さんをよく見かける。人口の8%が僧とのことである。6歳くらいから修行僧として寺院に入り、様々な修行と仏教の勉強を積み重ねる。一度僧として仏門に入ると、余程のことがない限り還俗はできないし、当然妻帯することも許されない。
午後3時頃、ホテルにチェックインし、シャワーを浴び、備えてあったジャパニーズティーを飲みながら、日本から持ってきていた「街道をゆく」を読んでいると、知らず知らずのうちに少しうとうとした。目が覚めると午後5時前だった。
夕食までには少々時間があるので、1階のロビーでコーヒーを飲むことにした。ウエイトレスの若い女性にコーヒーを注文した。運ばれて来た時に、私は勇気を奮い立たせて、「Excuse Me! Are You Happy?」と話しかけた。間髪を置かず、「Yes Happy!」という返事が、笑顔と共に返ってきた。
夕食を済ませてから私は、一人でティンプーの街へ出かけた。お土産として友人に頼まれていたマニ車を買い、ゴを買った店にも立ち寄り、間を計りながら、店員に「Are You Happy?」と聞いてみた。答えは、常に笑顔を添えた「Yes Happy!」であった。

その日から、パロにある農家で、いよいよ2泊のホームステイが始まる。車に乗ると、すぐさま日本から、ガイドのドルシーの携帯に電話がかかってきた。私に「日本の会社に電話して欲しい」という内容だった。あまり良くないことだろうと思いながら電話してみると、案の定、元役員のF氏が亡くなり、「その対応をどのようにしたらよいか」という相談だった。F氏の年齢は私と同じで、会社を「百億円企業にしよう」とお互いに凌ぎを削りあったりもしたが、いつともなく価値観にずれが生じ始め、彼は去っていったのである。私は指示を与え、手を合わせ、彼の冥福を心から祈った。
パロで最初に訪れた所は、『西岡京治記念チョルテン』である。私はブータンに来るまで、西岡京治氏の存在を知らなかった。佐藤氏は彼のことを調査済みで、記念館に行くことをたいそう喜んでいた。西岡氏はブータンにおける農業の父として、広くブータン国民から崇められている人物である。
1964年にJICAからの派遣で、婦人と共にブータン入りをされた。その当時のブータンは、3代国王の下、やっと国際化が始まった頃であった。1992年に西岡氏が亡くなるまでの28年間、ブータン国民の目線で、稲作から野菜栽培、リンゴ栽培に至るまで、あらゆる農業を指導し、国王より「ダショー」という称号(ブータン国で2番目に位の高い爵位)を頂かれた。西岡京治記念チョルテンは高台にあり、そこからパロ空港が一望できた。お参りを済ませると、清々しい気持ちになった。
パロの街へ降りて、昼食を取る。少し街をブラブラしていると、子供達が何か遊びに興じていた。覗き込むと、1m四方程のベニヤ板の上で、カジノで使うチップくらいの大きさのガラス玉を、おはじきの要領で指で弾きながら、まるでビリヤードのように4隅に落とす「キャロム」というゲームであった。しばらく見物していたが、参加したくなって、一緒にさせてもらった。簡単そうに見えて、実際やってみると、なかなか思うようにはいかなかった。
ガイド達との待ち合わせ時間が来たので車まで行くと、彼らはまだ来ていなかった。ドアのノブを引くと開いた。しばらくしてガイド達がやってきたので、「ドアが開いたままになっている。無用心だ」と言うと、「この国には泥棒はいません。大丈夫です」と、彼らは涼しげに言った。
ホームステイ宅に行くまでに少々時間があったので、国立博物館へ行き、それからブータン最古の寺院である『キチュ・ラカン』を訪ねた。言い伝えによれば、この寺院は7世紀にチベットを統一した『ソンツェン・ガンポ王』が、チベット全域に多大な力を持っていた魔女の力を封じるために、108のポイントに建立した寺院のうちの一つだそうである。
現在のキチュ・ラカンは3層の屋根の繊細なお堂で、それがまるで双子のように並び建っている。ご本尊は仏陀(秘仏で我々は見ることはできない)で、その仏陀を取り囲むように複数の十一面千手観音が安置されている。
午後3時過ぎに、ホームステイ先である「ツェリン」さんのお宅に着く。建物は木造で荒削りだが、木柄も大きく、がっしりとした総3階建造りである。1階は納屋と牛小屋で、2階がツェリンさん達の住まいで、3階が我々の部屋になっている。
3階をもう少し詳しく記すと、12帖位の居間兼レセプションルームがあり、他に8帖程の部屋(私と佐藤氏が枕を並べた)と、ガイド用の小部屋がある。それに、少し隠れ部屋のような雰囲気を醸し出している部屋がもう一つあった。そこは仏間になっており、10帖くらいはあった。早速、ガイドのドルジーに案内をしてもらった。寺院で行った要領で、頭の上でまず手を合わせ、次に胸の前で手を合わせてから跪き、頭を床に付ける礼拝を3度繰り返した。
バター茶が入ったと言うので、レセプションルームに行くと、奥様と10歳くらいの少女が満面の笑顔で迎えてくれた。少女の名前は「ガルマ」と言う。ツェリンさんの子供にしては余りに幼すぎると思い、ガイドに尋ねてみると、少女は東ブータンの出身で、ツェリンさんの息子さんがその地を訪れた時に、アルコールで心身ともに病に侵された彼女の父親との生活を見るに見かねて、弟と一緒にパロに連れて帰って来たのだそうだ。弟は息子さん宅で預かり、ガルマはツェリンさん宅で暮らしている。
明日は、いよいよブータンの聖地『タクツァン僧院』へのトレッキングだ。それに備えて、早めに(午後9時頃)、床に就く。

次の日(7月27日)朝8時に、ツェリンさん達に見送られながら出発した。タクツァン僧院の麓までは1時間程で着く。佐藤氏にステッキを借り(本当に彼は全てにおいて準備が完璧である)、軽くストレッチをしてから登り始めた。
10分もしないうちに、妙に息苦しくなった。考えてみれば、ここは海抜2,300mの地である。そういえば、ホテルの階段を上る時に、動悸にみまわれたことを思い出した。高地とはこういうことだったのか…と実感した。ガイドのドルシーが心配そうに私を見つめながら、「香山さん、時々大きく深呼吸をしながら、ゆっくり登ってください」と言い、私のリュックサックを持ってくれた。佐藤氏の姿はもう見えない。ガイドとの距離も段々離れていく。
やっとの思いで、第1展望台に辿り着く。そこで紅茶とビスケットを食す。そのビスケットが本当に美味しかった。佐藤氏は平然としているので、聞いてみると、彼は日本アルプスへ何度も登った経験があり、彼にとってタクツァン僧院へのトレッキングは、平地みたいなものだそうだ。佐藤氏は、カメラマン佐藤であり、「登山家佐藤」でもあった。
第1展望台から第2展望台までは、比較的平坦な道程だった。第2展望台からは、目の前にタクツァン僧院を見ることができる。まさに断崖絶壁の岩肌にへばりついている。そこから一気に600段の階段を駆け下り、荘厳な滝の前を通り過ぎ、今度は200段の石段を上り詰めると、聖地タクツァン僧院である。
タクツァンとは「虎のねぐら」という意味で、『パドマサンババ』という高僧が、チベットから虎に乗ってやってきて、そこで瞑想をし、ブータンに仏教を広めたと伝えられている。
ガイドの案内で本殿に入ると、中は空気が澄み切っており、私のような俗物でも心身ともに洗われる思いである。その一角で、35歳前後の欧米人の女性が瞑想していた。ご本尊に向かって、20歳位の若い僧が、女性のために一心にお祈りを奉げている。そのお祈りこそが、最高の礼拝と云われている五体投地である。両膝・両肘・顔を床に擦りつけ、野球でいうところのヘッドスライディングを繰り返している。何人も近寄り難い雰囲気を醸し出している。
少し離れたところで、遠慮がちに私はお祈りを奉げた。「家族の健康(生まれてくる孫と愛猫も含めて)」「NPO法人の成功」「ネットワーク企業の繁栄」と、少々欲張りに礼拝をした。
下りは息も切れず、麓まで辿り着いた。それでも登山家佐藤氏は、私より40分程早く到着していた。
ツェリンさん宅に帰ると、「石焼風呂」が我々を待っていた。石焼風呂の浴槽は木でできており、長さ160cm×幅70cm程で、30cmくらいの場所が板で仕切られていて、そこに火で真っ赤に焼かれた石を投げ込む。浴槽には予め水が張られており、焼かれた石を投げ込むことで、適当な湯加減になる仕組みである。
浴室(?)は、屋根はあるが、戸はなく薄暗い。決して清潔とは言えない浴槽に体を沈めると、まるで温泉にでも入っているかのようにぽかぽかしてくる。事実、その後も眠るまでほんわか暖かく、気持ちよく休むことができた。

いよいよブータン国と別れる日の朝である。6時頃に目覚めたので、ベランダに出てみると、ガルマが一升瓶より少し大きめの瓶を、棒のようなもので突いていた。身振り手振りで尋ねると、どうやらチーズを作っているということだった。佐藤氏も起きてきて、ガルマのその姿にシャッターを押し続けた。
朝食を済ませ、帰りの準備も整えて、ガルマも含めてツェリンさん達と別れを惜しみながら、ベランダで記念写真を撮った。
私はガイドのドルジーに、ブータン語でしっかり通訳するように伝えた。ガルマを呼び、私は、「ガルマ、君は本当に優しくて良い子ですね。でも、おじさんはこう思う。なるほど、今はツェリンさん宅で牛の世話をしたり、チーズを作ったり、お母さんの家事のお手伝いをしたりして、以前とは比較にならない楽しい生活だと思う。でもね、ガルマ、いつまでもツェリンさん達が元気ではないよ。いつかは一人で生きていかなくてはならないし、弟の面倒だって見なくてはね。そのためにも少しずつでいいから学校へも行き、色々なことを勉強し、お友達とも仲良くなり、立派に育って、世の中の役に立つ人になって欲しい。おじさんはそう願っています。ガルマは賢い子だから、理解してくれると思うが、ぜひ考えておいてね。わかった?」。ガルマははにかみながらにっこり笑い、頷いてくれた。
ツェリンさん宅からパロ国際空港までは、20分足らずである。搭乗手続きを済ませ、ガイドのドルシーとドライバーのニマに感謝と別れを告げた。
飛行機が飛び立ち、私は窓からパロの街を見ながら、「ガディンチェ(ありがとう)、ブータン!」「ログジェゲ(さよなら)、ブータン!」「ログジェゲ(また会いましょう)、ガルマ!」と唱えた。

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