或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 エッセイ集


2012年12月


  105.中国旅行記(2)~張作霖編~

大連も瀋陽も遼寧省の大都市で、民族は満民族に属する。人口は大連が600万、瀋陽は700万である。大連の道路は放射線状に、一方、瀋陽は広い道路が碁 盤状に広がっている。どちらの都市にもタワークレーンが乱立し、30階建て以上の色々な建物が、まさに雨後の筍のように立ち並んでいる。
前日のチェックインが遅かったため、7月8日は少々ゆっくりとホテルを出発した。
まず、『故宮博物館』を訪れた。正直なところ、私は瀋陽に故宮があることを知らなかった。故宮は北京と台湾にしかないものと思っていた。行ってみると、瀋 陽の故宮こそが最も古く、なかなか趣があった。世界遺産にも登録されている。清王朝を創設した太祖ヌルハチが、明軍に大勝し、瀋陽を盛京と改名して都を構 えたが、幾多の戦での負傷がもとで亡くなると、二代目太宗(ホンタイジ)が清朝の基礎を固め、後を継いだ三代目順治帝(フリン)が明を完全に滅ぼし、北京 に遷都した。そして、瀋陽の故宮をモデルにして、北京に何倍もの故宮=いわゆる『紫禁城』を作ったのである。
『張作霖記念館』(本当の名称は『張学良記念博物館』であるが、張作霖ファンとしては、あえてこう呼ばせていただく)までは、故宮博物館から車で7~8分 であった。そこには、彼が10年足らずを過ごした自宅と執務室が公開されており、写真も何枚か展示してあった。張作霖は、浅田次郎の小説から想像していた よりも、はるかに柔和で優しい顔つきだった。やっと会えた…。確かに、張作霖はそこに存在していた…。
次に訪れた『9.18記念館』については、あまり記したくない気持ちである。1931年9月18日に起きた『柳条湖事件』に端を発し、それが満州事変へと 繋がっていくのであるが、「そのことを中国国民は決して忘れてはいけない」という記念館である。中に入ってみると、写真や等身大の人形を駆使し、いかに日 本軍が悪事の限りを尽くしたかを、広大なスペースを割いて、繰り返し見せ付けている。私は吐き気を催した。
夜は中国の家庭料理を食べ、翌日の出発に備えて早めに寝た。
7月9日、再び修学旅行のような列車に乗り、大連まで4時間半の旅についた。大連駅から大連空港までの車中で、「昔、我々が203高地を訪れた日の午後 に、日本人観光客が亡くなった」と、ドライバーがつぶやいた。ガイドは、「1年に1人はあそこで亡くなる」と言った。そう言えば、203高地には別名があ り、『爾霊山』とも呼ばれる。私は背筋に寒気を覚えた。
 

(完)

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  104.中国旅行記(1)~203高地編~

平成24年7月6日、私の64回目の誕生日である。この年齢になると、少しもおめでたくはないが、新たなる出発の日としては区切りになると思い、この日を中国への旅立ちの日とした。
今回の中国旅行には、二つの目的があった。ひとつは、『坂之上の雲』で広く知られるところとなった『203高地』―日露戦争における最大の激戦地であり、 勝敗のターニングポイントともなった―をこの目で見ること。いまひとつは、中原の覇者を目指したが、虹と消えてしまった『張作霖』に会うためである。
7月6日11時30分、大連空港に到着した私は、すぐさま迎えに来ているはずのガイドを捜した。海外旅行は何度も経験しているが、一人旅は初めてである。 無事にガイドと出会い、その日は『満鉄本社』と『中山ホテル』を見学し、早めに宿泊先の大連日航ホテルへチェックインした。
夕食は、ガイドとドライバーと3人で中国式しゃぶしゃぶ「火鍋」を食べた。夜はガイドの勧めで舞台を見た。特に面白くて興味を覚えたのは、一瞬で七変化す る「変顔」(日本でいう変な顔ではなく、変化する顔という意味)、少林寺拳法を極めた達人による気功術、胡弓などであった。
翌朝8時、ホテルを出発し、いよいよ203高地へと向かう。1時間ほどで到着。昨日、ガイドに頼んでおいた花束を献花しようとしたところ、現地の案内人か ら「中国人の感情を刺激するから」と諌められた。目立たない場所にすることになり、頂上付近の『乃木保典』の慰霊塔にそっと置いた。
『旅順港』は真下に見えるのかと思っていたが、7kmも向こうに、霧に霞んでいた。今の203高地には、凄惨な戦いの跡も臭いも感じられなかった。それで も、私は頂上で人目を憚りながら、亡くなった日本人とロシア人と、そして巻き添えとなった中国人を偲び、般若心経を一心不乱に唱えた。
それから、乃木とステッセルが会見した『水師営』に立ち寄った。本当にみすぼらしい民家であった。その後、大連まで戻り、昼食に中国のラーメンと餃子を食べた。意外とあっさりしていて美味しかった。
瀋陽(奉天)までは、列車での移動である。中学生の修学旅行列車のようだ。直角に立った硬い座席に、二人ずつ向かい合って座る。リクライニングも何もない、4時間余りの車中であった。
夜のディナーは、少々張り込んで海鮮料理を食べた。夜9時半頃、瀋陽シェラトンホテルにチェックインした。明日は、いよいよ『張作霖』に会える。少々、興奮気味であった。
 

(中国旅行記(2)に続く)

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  103.齋藤真嗣という男

齋藤真嗣(さいとうまさし)は医者である。それもかなり著名な医者である。彼はニューヨークと東京を往復する生活をしているが、今や地球規模で活動してい る。南アフリカにいたかと思うと、ミラノ大学で講義を行ったり、韓国の医療雑誌に投稿していたりする毎日である。趣味はゴルフだが、この前に会った時は 「昨年は6回しかラウンドできなかった」と嘆いていた。
彼のクライアントには、信じられない人物の名前が連なる。最も親しくしているのは、あのビル・ゲイツだ。ビル・ゲイツとは単なるクライアントと医者の関係 だけでなく、囲碁でも師弟関係にある。もちろん師は齋藤先生である。彼が私の主治医でもあるということが、私の最近の自慢話のひとつだ。齋藤先生とビル・ ゲイツと私の3人でフェアウエーを歩く姿を想像するだけで、爽快な気分に浸れる。
彼と私の出会いは、友人の紹介によるものだった。友人のご子息がアメリカの大学に留学していた時に齋藤先生と知り合い、そこから互いに名前で呼び合う仲に なったそうだ。しかし、私はもう少し前から彼を知っていた。彼が執筆した書籍『体温を上げると健康になる』(サンマーク出版)を読んでいたのである。私は 35.5度と平均体温が低いので、ある時、本屋でそれが目に留まり、買い求めていたのだった。
昨年、彼の指導のもと、東京の前田病院(白州次郎が永眠した病院として知られる)で人間ドックを受け、今年もお世話になった。彼は39歳の爽やかな好青年である。
彼の専門は「腫瘍」と「血液」であるが、「いかに人間が健康で長生きできるか」という永遠のテーマに正面から取り組んでいる。彼が提唱する健康法は以下の 3つで、それらを継続することにより、細胞が活性化し、いつまでも若さが保たれるという。
①ウォーキング…1日7,000~10,000歩を歩く。
②食材…とにかく葱類(青葱・玉葱・にら・にんにく等)をできるだけ多く摂取する。
③睡眠の時間帯…夜10時から午前2時までの間は就寝する。
彼は、「香山さん、あなたのアンチエイジングは任せてください」と、目をキラキラ輝かせながら言ってくれた。世界のどこにいても、1日に100通以上メー ルが送られてくる中、私が送ったメールに返信してくれる。私は彼のお陰で、今後15年をかけて、心おきなく「下山の思想」(『下山の思想』五木寛之著・幻 冬舎より)を展開していく準備を整えることができた。

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  102.新しき旅立ち

28年前、私は父に「勝ち戦の時は誰が経営してもよいが、負け戦になれば、私かあなたがするしかないでしょう。私が行きます」と言って、当時の八幡ナショナル株式会社(現株式会社パナホーム兵庫)に副社長として赴任した。
最初の5年間は若さと情熱で乗り切り、一応企業としての形をつくることができた。しかしながらあちらこちらが綻び始め、それは小さな見せかけだけの成功で あることに気がついた。その頃から、「人間とは? 組織とは? 集団とは?」と言う命題に、正面から取り組むようになった。企業にとって最も大切なものが、「理念」であり「哲学」であり「ミッション」であることを悟っ た。それがわかると、当時受けた研修や読んだ本も、海綿が水を吸うように頭と心に入っていった。しかし、企業経営の難しさは、いくら自分自身が理解して も、それを従業員が共有し、実践の場に活かされないと、何の価値もないことである。いわゆる「知行合一」である。
私は生来の怠け者で遊び好きだし、徳もなければ先見力にも乏しく、経営者には向かないタイプの人間である。マキャベリの言葉である「君子は全ての善徳を兼 ね備える必要はない、ただ兼ね備えているように見せる必要がある」が、私の支えだった。だから、私は「名俳優」を目指して、精一杯演技をしてきた。いずれ 本物になると信じて…。私のような凡人でもここまでくらいは来られたのだから、次を担う人たちも、夢と勇気と少しの愛を持って、経営を執り行ってほしいと 願うばかりである。
2012年3月31日をもって、私はパナホーム兵庫グループの経営から身を退いた。思えば、この28年間に展開してきた施策で、うまくいったといえるもの は、ほんの2~3割である。志半ばで亡くなった人(足立常務)もいれば、日を追うごとに価値観がずれて去っていった仲間も数多くいる。私は従業員に恵まれ たが、一方、良きにつけ悪しきにつけ、従業員の人生に多大な影響を及ぼした。いくらお詫びしてもしきれないと思う。
今月、私は「歩き遍路」に出る。それが終わると、少し世界を見てこようと思っている。その旅は「二百三高地」から始まり、ブータンにも立ち寄り、ここ 4~5年の愛読書である「ローマ人の物語」の世界をゆっくり訪ねるつもりだ。NPO法人(二・三世経営者のための経営塾)も設立し、WFP(国連世界食糧 計画)にも積極的に参加していく。
宇宙からいただいた命の続く限り、私は究極の「空」を求めて、また彷徨うであろう。

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  101.歌舞伎鑑賞Ⅲ

『成駒屋』という有名な屋号は、『歌右衛門』が本流である。『歌右衛門』が亡くなっているので、いずれは『芝翫』(昨年10月に死去された)が名を継ぐと思うのだが、そうすると『福助』が『芝翫』を襲名することになるのだろう。
『鴈治郎』は『坂田藤十郎』を襲名し、屋号は『山城屋』へ変わった。この名跡は231年も途絶えていた大名跡で、それを復活したことは、誠におめでたい限 りである。『藤十郎』は「近松」の世話物を演じたら天下一品であり、そこをとことん極めて欲しいと、人間国宝に向かって少々生意気だが、私はお願いする次 第である。
また、『吉右衛門』のスケールの大きさには、ただ感服するのみである。『勧進帳』は『幸四郎』の十八番のように言われていて、事実演じた回数も1,000 回を超えたそうだが、私は『吉右衛門』の『勧進帳』の方がはるかに好きである。花道から「飛び六方」を踏みながら奥へ引っ込む『播磨屋』の方が、ずっと迫 力がある。どうも『高麗屋』は好きになれない。『吉右衛門』の『一条大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』も、何度でも観たい演目の一つである。
歌舞伎界に一大旋風を起こした『澤瀉屋(おもだかや)』の『猿之助』(亀治郎が猿之助を襲名し、香川照之が歌舞伎界に入る、という突然のニュースで我々を 驚かせた)が、体調を崩したままなのは寂しい限りである。スーパー歌舞伎で一斉を風靡し、宙乗りの醍醐味を我々素人にも楽しませてくれた。渋いところで は、『黒塚』は、ぜひもう一度観てみたい演目の一つである。早く元気になられるのを祈っている。
歌舞伎を度々観ていると、面白いハプニングに時々出食わす。あれは5~6年前だったと思うが、大阪の「松竹座」へ行った時のことだった。「歌舞伎講座」と 称して、『翫雀』が歌舞伎の面白さとか、鑑賞のポイントや決め事などをわかり易く解説し、その後に歌舞伎のひとコマを観客が演ずるというコーナーがあっ た。「誰か出てみたい人はありませんか?」と声をかけられたので、私は「は~い」と言って一番に手を挙げた。すぐさま舞台裏へ呼ばれ、男は「女形」にな り、女は男装するという設定になっていた。私は「傾城」になり、女性は「若衆」のいでたちで、舞台中央に船に乗ってせり上がったのである(もう、かっこい いと言ったら…)。あの爽快さは、今も忘れることができない。以前から、一度歌舞伎の舞台に立ってみたいと思っていた。夢は念ずれば叶うものだと、しみじみ思った。
私の気ままな「歌舞伎鑑賞」はまだまだ続く…。

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  100.歌舞伎鑑賞Ⅱ

平成17年5月、『勘九郎』は『勘三郎』と名を改め、十八代目を襲名した。先代を生で観る機会はなかったが、テレビで観た『一本刀土俵入』の1シーンで、 『茂兵衛』と2階にいる『歌右衛門』の『お蔦』との掛け合いを何故か鮮明に記憶している。『歌右衛門』の舞台は何回か観たが、花道から出てくるだけで、そ の辺一体が独特のオーラに包まれたものである。
当代『勘三郎』の良いところは、とにかく全てに一生懸命に取り組んでいる姿勢である。彼は踊りも上手いし、『三津五郎』との軽妙なやり取りも良いし、『髪 結新三』も『怪談乳房榎』の早変わりも何回でも観たい。また、野田秀樹や串田和美との新作歌舞伎にも積極的に取り組んでいる。芸の幅が広い。願わくは天才 と謳われた先代の深さを極めて欲しい。これからの歌舞伎界を背負う人物であることに間違いない。
忘れてならないのが『音羽屋』(七代目尾上菊五郎)の存在である。『白浪五人男』の見せ場である『浜松屋店先の場』で、「もう化けちゃあいられねえ」と啖 呵を切って言うあの名台詞は、『音羽屋』以外の人に言って欲しくない…などとついつい思ってしまう。私は「浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は尽き ねぇ七里が浜、その白浪の夜働き…」を諳んじて、時々宴会の席でカラオケ代わりに披露したこともあるほどである。大向こうから「いよ!音羽屋」と威勢のい い声が掛かりそうである。
上方歌舞伎といえば『坂田藤十郎』のことのように思っている人が多いが、私は『松嶋屋』が本流だと思っている。平成10年に『孝夫』が『仁左衛門』を襲名 したが、三男が継ぐというのも珍しいことである。先代の『仁左衛門』の最後の舞台を、偶然に顔見世で見られたのはラッキーと言うしかない。舞台に立ってい るだけで存在感を感じる役者だった。現在の十五代『仁左衛門』は大変華のある役者で、大病も克服して、上方歌舞伎には欠かせない存在である。
少し脱線するが、私のホームコースである上月カントリーの腐れ縁のオーナーの母親が、『松嶋屋』の大タニマチだったそうで、今でも『仁左衛門』は「お母さ ん」と言って慕っているそうである。名誉のために言っておくが、お母さんは大変立派な人物である。仮にも『松嶋屋』のタニマチに誰でもなれるわけがないこ とくらいは私でもわかる。
(次話へ続く)

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  99.歌舞伎鑑賞

後2ヶ月もすると、京都の南座に『まねき』が上がる。顔見世の時期である。もう10年以上、余程のことがない限り観続けている。顔見世を観るために師走の都大路を訪れると、「ああ、今年も終わりだなあ」という想いに浸る。
これからは全く私見であり、知識不足で所々辻褄の合わない箇所があるかもしれないが、ご容赦願いたい。
歌舞伎と言えば、私はいの一番に『団十郎』を挙げる。そもそも『歌舞伎十八番』と言うのは、『団十郎』すなわち『成田屋』の出し物から選定された十八の演目のことだから、歌舞伎の今日までの歴史に順番があるとすれば、『出雲の阿国』に次ぐ順位になると思う。
現在の『団十郎』は十二代目になる。病も回復し、元気で舞台を勤めている。彼の『助六』は、何と言っても絶品である。紫の鉢巻と黄色の足袋は、『成田屋』 が最も似合う。今までに色々な役者の『助六』を見たが、これだけは他の役者に演じて欲しくないと思っている。あの粋さは『団十郎』でしか出せない粋さであ り、他の役者では無理である。上手とか下手とかの領域ではなく、代々引き継がれてきた『団十郎』のDNAとしか言い様がない。
一方『玉三郎』は、この世のものとは思えない。あれはまさしく化け物であり、女以上の女形である。三浦屋の『揚巻』といい、『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)』の『八ツ橋太夫』といい、身震いがしてしまう。『玉三郎』の『八ツ橋太夫』が艶やかな花魁道中をしながら登場し、田舎者の『次郎左衛 門』にほんの一瞬ニッコリと笑うくだりがあるのだが、あの眼で見られたら、『次郎左衛門』でなくとも逆上せあがってしまう。
今、歌舞伎界で踊りだけで人が呼べるのは、『玉三郎』だけである。一度『玉三郎』の踊りだけの舞台があり、必死の思いでチケットを手に入れて見に行った が、観終わった後も2~3日その余韻に浸ったものである。『藤娘』は勿論、『鷺娘』の最後に紙吹雪の中で息を引き取っていくシーンを、今でも時々夢に見る くらいである。
(次話へ続く)

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  98.信州長野

4月の末に長野県を訪れた。今回で4回目になると思うが、ほとんどと言っていいほど長野についての知識はない。松本城を見学したのと、アルプスを垣間見たのと、美ヶ原の野外彫刻を時間に追われながら駆け足で観たくらいである。
残念ながら、今回も善光寺へはお参りできなかった。「遠くとも一度は詣れ善光寺 救け給うぞ弥陀の誓願」と言われているが、どうやらご縁がなかったよう で、「また来なさい」ということかも知れない。また、昨年はある知り合いから「諏訪大社」の御柱祭に招待されたが、スケジュールがどうしても合わず断念し た。御柱祭は寅と申の年に行われる日本有数の大祭のひとつで、それを目にするには7年の月日を待たねばならない。
この度の長野行きは、パナホーム東海の社長であるH氏の依頼に基づくものである。彼が社長に就任してちょうど1年が経過したのを機に、以前からのお誘いに 乗じたのである。2代前の社長M氏とは、長く同じ販社の仲間として付き合っていたが、3年前に健康上の理由から退職され、その時に彼が所有していた株を、 その評価が余りに高過ぎるため引き受ける者がなく、パナホーム東海という企業が自社買いをした。そのことにより、メーカーであるパナホームの持ち株比率が 70%を超えたため、メーカーの子会社になったのである。М氏の後の2年間はS氏が社長を務めたが、業績が芳しくなかったため、メーカー社員であるH氏 が、急遽1年前に社長を仰せつかったのである。
彼はメーカー社員でありながらも、私と心を許せる数少ない人間であった。転勤になる度に私の元を訪れ、色々と私から盗んで施策に組み入れていた。しかし、 今回のパナホーム東海への転勤だけは、相当ショックであったと推測される。何せ彼は近畿圏から出たことがないし、一人の知り合いもいない長野県である。 「今、新大阪駅です。今から長野に行ってきます」。私の携帯に電話してきた彼の、泣き出しそうな、何とも言えない弱々しくか細い声が、今でも私の耳に残っ ている。
しかし、1年ぶりにあった彼は、経営者としても、勿論人間としても、一回りも二回りも大きくなっており、長野での生活そのものを楽しんでいて、余裕さえ感 じた。私は2時間余り、経営や営業について幹部の方々にお話をした。その帰りの車の中で、彼は「香山社長の十八ヶ条の憲法だけが心の支えでした」とボソッ と語った。私は、熱いものがこみ上げてくるのを我慢するのが精一杯だった。

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  97.古都奈良~お水取り~

「お水取りが終わるまでは、温うはならん」。亡くなった祖母から幾度となく耳にした言葉だった。その意味もわからず、ただなんとなく子供心に納得していた。
お水取りは、また「お松明(たいまつ)」とも呼ばれているが、正式には「東大寺二月堂修二会(しゅにえ)」といい、毎年3月1日から2週間行なわれる。そ の歴史は古く、西暦752年、東大寺開山・良弁(ろうべん)僧正の高弟・実忠(じっちゅう)和尚によって始められたと伝えられている。以来1度も途絶える ことなく続けられており、今年で1,260回を数える。
前年の12月16日に、翌年の修二会を勤める「連行衆(れんぎょうしゅう)」と呼ばれる11名の僧侶が選ばれ、明けて2月20日から別火(べっか)という 前行が始まり、3月1日からの本行に備えるそうである。3月12日の深夜(正式には3月13日の午前1時半頃)には、「若狭井」という井戸から、観音様に お供えする「お香水(こうすい)」を汲み上げる儀式が行なわれる。これから「お水取り」と呼ばれるようになったのである。特にその日は大きな松明が焚か れ、大勢の人で賑わう。
私は2度お水取りを見に行った。1度目は二月堂の境内から、火を灯した大きな松明が、僧侶が打ち鳴らす鐘の音と共に、次々と廊下を伝って一気に二月堂の本 堂へと駆け上がっていく勇壮な儀式を眺めた。その度に歓声が沸き起こり、振り回される松明から火の粉が観衆の上に降り注ぐ。火の粉を浴びると、1年間無病 息災で過ごせると言われている。
2回目は本堂の中で間近に見た。本堂へは、事前に社務所に申し込めば、定員はあるが入ることができる。本堂の中では、ご本尊である「十一面観世音菩薩」の 前で、選ばれた11名の練行衆の力強い読経が続く。その中を大松明が次々と通り過ぎてゆく。火の粉は下の観衆の上に滝のように流れ落ちていく。燃え盛る火 の調子と風の具合で、本堂の縁側にも火の粉は落ちていく。時代や世の中がいかに移り変わろうとも、粛々と今日まで1,200年以上も続けられている法要で ある。
私は熱いものを感じた。それは燃え上がる松明のせいだけでは決してない。
 

二月堂 夜空を焦がす 大松明 世界に届け 平和の祈り(拙作)

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  96.わが息子へ ~結婚に際しての父親よりの手紙~

私には、父親としての点数はつけられない。なぜなら、世間で言う父親らしいことをほとんどした記憶がないからである。女房に言わせれば、幼児の頃、子供3 人をお風呂に入れたのは2回しかないらしいし、運動会の思い出もない。キャッチボールの相手は常に母親で、お前が好きだったサッカーの相手も私ではなかっ た。わずかに親らしいと自慢できるのは、オープン間もないディズニーランドへ家族5人で行ったことくらいである。
そういう意味からすると、私は父親失格である。忙しかったといえば忙しかったが、子供と過ごす時間くらいは、作ろうと思えば作れたと今では思う。そのこと に関しては反省しているし、この場を借りて謝っておく。お前が生まれた頃は岡山の営業所に勤務していて、長女などは私のことを「岡山のお父さん」と呼んで いたらしい。それくらい家には帰らなかったし、仕事優先であったことは確かである。
悪いが、私には家庭に関わっている暇はなかったのである。仕事もそうであるが、私にはどうしても倒さなければならない「敵」「強烈なライバル」達がいたの だ。それは、言うまでもなく私の父親、すなわちお前の祖父であり、彼を取り巻く個性豊かな彼の番頭達である。彼らに勝ち、彼らを倒さなければ、私の「位 置」は確保できないし、「私の将来」はみすぼらしいものになると感じたのである。是が非でも実績を積み重ね、それを彼らに見せつけなければ「ああ、アレは 社長の息子やから」と、甘く見られると思ったのである。だから、私は全てに「がむしゃら」であった。それはわかってほしいし、認めて欲しい。
しかし、お前は違う。私を倒す必要もないし、お前の周りには心優しい先輩や同僚達がいる。お前は決して私の真似などしなくていいし、私の代わりにはなれな いのだから、お前はお前の思う道を進めばいい。私が第一線にいる間は、できる限りの応援はする。しかし、それは所詮応援でしかあり得ない。わかっていると 思うが、最終的にはお前自身で考え、実践しなければならない。
残念ながら、お前には浮かれている時間も余裕もない。焦る必要はないが、のんびりもしておられない。何せ、かつて誰もが経験したことのない、経済は「デフ レ」、市場は「ストック」、金融は「円高」という難しい現代だから。祖父や私の時代よりも、はるかに混迷の時代である。我々の時代は、とにかく一生懸命頑 張れば何とかなった時代だった。でも、今は違う。気の毒だが、それはお前の宿命である。
最後に、どうか、あらゆる「観る目」を養ってほしい。そして、元気に明るく、前向きに&しつこく、いきましょう。

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  95.聖アンドリュースへの道

昨年の12月頃であったように思う。当社の目木君が私の部屋にやって来て、「あのー、本当に行っていただけるのですか?」。私は「どこへ行くのか?」と尋ねると、「セントアンドリュースです」と言う。
私はすっかり忘れていたのである、彼との約束を…。
パナホームでは、累積出荷棟数が200棟に達した営業マンに、報奨として100万円の旅行券がプレゼントされるのであるが、彼はその資格を得たのである。私は彼に「200棟出荷したら、セントアンドリュースに一緒に行こう」と約束していたのだ。
「勿論行く」と私は答えた。彼も知っている私の友人2人を交えての計画が、そこから始まった。
2010年8月15日午前5時に山崎を出発し、一路関空へ向かう。無論全員睡眠不足である。アシアナ航空でソウルまで行き、3時間ほど仁川空港で費やし、同じくアシアナ航空でロンドンヒースロー空港へ飛び立った。
ロンドンのホテルにチェックインしたのは、夜の8時前(日本との時差は8時間)だった。白夜だから外は充分明るい。予想通りまずい夕食を早々に済ませベッ ドイン。16日は朝食を簡単に済ませ、一行は市内観光へ。何はさておいても「大英博物館」には行くことにしていた。イギリスでは博物館・美術館などはすべ て無料である。館内は迷路のようだった。ガイドに遅れないように駆け足で観て回り、「バッキンガム宮殿」は外から見て、ヒースロー空港からエジンバラ空港 に到着した。
空港から車で約1時間半。やっと「オールドコースホテル」に着いた。17日は朝軽く練習をし、ニューコースを回った。
そして、2010年8月18日午前10時50分、憧れの最愛の恋人「セントアンドリュース・オールドコース」の1番ティに立つ。震えながらティアップし、 ドライバーショットを放つ。強烈なアゲンストも影響し、想いとは裏腹にボールは大きく左に反れる。いきなりのダボ発進である。先が思いやられる。名物17 番ホールは完璧なドライバーを打ちながらも、結果はボギー。あっという間の最終ホール。神業的なアプローチをすると、コースを取り囲む観客から拍手が起き る。私は軽く手を上げて応える。
「セントアンドリュースってどんなところ?」という質問には、「それは世界一さ」と答える。「どこが?」。「全て」。まさしく「聖アンドリュース」であ る。私の机の上には、ガラスケースの中で銀杯に飾られた14番ホールでのバーディボールと17番ホールのバンカーの砂が燦然と輝いている。

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  94.古都奈良~明日香編~

藤村風に言えば、「明日香は全て古墳の中」になるであろう。
もう随分以前になるが、夏のうだるような暑い日に、明日香を訪れたことがある。その記憶を辿りながら、書いてみることにする。
実は私の中でモヤモヤしていたことがあり、色々調べてみたが、それでもわからないので、観光協会に直接電話をして聞いてみた。「明日香」と「飛鳥」の違い についてである。万葉の時代からも使われていたらしいが、「飛鳥」はその地方にかかる枕詞だったようであり、漠然としていて、広い意味で使われていたそう である。昭和31年に三つの村が合併して「明日香村」となってからは、正式な名称は「明日香村」で、その中に「飛鳥」という大字があるとのことだ。結局は よくわからず、観光協会の人も、はっきりとしたものはなく適当に使い分けているらしい。何か大雑把で、私は安堵し、古代のロマンを一層感じた。
推古天皇が豊浦宮に宮殿を建て、天武天皇が飛鳥淨御原宮に宮殿を構え、持統天皇が藤原京へ遷都するまでの100年の間、飛鳥に都があったとされている。 645年に中大兄皇子や中臣鎌足らの手によって起こされたクーデター、蘇我入鹿を倒したあの有名な「大化の改新」も、この時代になされたのである。
有名な古墳の中のひとつに「石舞台古墳」がある。わが国最大の方憤で、蘇我馬子の墓とされている。三十数個の岩からなる古墳の総重量は2,300トンもあ り、天井石は77トンとされ、当時の土木や運搬技術の高さを窺うことができる。横穴式石室が露呈している独特な形状をしており、天井石の上面が広く平らな ところから「石舞台」と呼ばれている。
また、「高松塚古墳」は「キトラ古墳」と並び称された有名な古墳である。高松塚古墳は7世紀から8世紀初頭に築造され、被葬者については様々な説があり定 かではない。石室の壁画は文化的価値が極めて高いもので、発見されて以来、雨水やカビの発生による劣化が進行していることが確認された。その保存や修復方 法についても様々な議論が重ねられたが、現在は一旦解体され、別の場所で修復されている。壁画は石室の東壁・西壁・北壁・天井の四面に描かれており、今で いうフレスコ画の技法が使用されている。「白虎」や「飛鳥美人像」は、我々も教科書等で目にしたことがある壁画である。他にも色々な星座が描かれており、 ロマンと神秘に思いを馳せてしまう。
「日本書紀」をもう一度おさらいをして、今度はゆっくりと、日本人のふるさと=悠久の地「明日香」を訪れたいものである。

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  93.古都奈良 ~法隆寺編~

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」
この句は、余りにも有名な子規の句であるが、この句の良さに気が付くまでに、私はずいぶん遠回りをしてしまった。
以前は時々気が向くままに川柳まがいの俳句をひねって、暑中見舞いのはがきに添えたりしていたのだが、私の友人の中で唯一知性派の一人が、定年退職を機に 本格的に俳句を始め、句集を送ってきたり、俳句についての論評を聞かされたりするうちに、自分の見識の無さに愕然とし、句を作ることができなくなってし まった。と同時に、子規の句の偉大さを知ったのである。「柿食へば」が実に新鮮で、その言葉が生きている。子規は若くして結核を患い、34歳でその生涯を 閉じるが、生来の明るさは死の直前までそのままであったとのことである。
「法隆寺」は別名「斑鳩寺」ともいい、宗派は聖徳宗の総本山であり、ご本尊に「釈迦如来」を抱き、創建は607年、開祖は推古天皇および聖徳太子である。 1993年、世界遺産にも登録されている。伽藍には「西院伽藍」と「東院伽藍」とがあり、西院伽藍は「南大門」を入った小高い場所に位置し、右に「金 堂」、左に「五重塔」を配し、それらを囲むように回廊が続いている。金堂も五重塔も現存する世界最古の木造建築物で、いずれも国宝である。特に五重塔は 1400年以上も幾多の災難から逃れ、その構造は今で言う免震工法がとられている。
東院伽藍は聖徳太子が住まいとしていた斑鳩宮の跡地に建立され、回廊で囲まれた中に八角円堂の「夢殿」が建ち、回廊南面には「礼堂」、北面には「絵殿」お よび「舎利殿」が建っている。夢殿には聖徳太子の等身像とされる「救世観音像」が安置されている。また、「大宝蔵院」には様々な国宝級の仏様、例えば「百 済観音像」「九面観音像」「夢達観音像」「地蔵菩薩観音像」等々が安置されており、とりわけ百済観音菩薩像は、「広隆寺霊宝殿」に安置されている「弥勒菩 薩半跏思惟像」と共に、私の好きな仏様である。どちらの仏様も観ているだけで心が優しくなってしまう。できるだけ早い時期に、ゆっくり時間をかけて再び法 隆寺を訪れたくなった。
今、奈良は遷都1300年祭で賑わっている。平城京跡地がメイン会場で、今年の11月7日まで開催される。ロマンと向学心に燃え、命も惜しまぬ若き人々を 乗せた遣唐使船も展示されているそうである。シルクロードの終着点・奈良。日本の文化の発祥地・奈良。奈良は日本人の心の故郷であり、私の心の拠り所でも ある。

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  92.古都奈良 ~薬師寺編~

「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」(佐々木信綱)
奈良は、無性に行きたくなる所である。現に一年のうち何度か訪れる。秋の「正倉院展」は、余程の事がない限り見る。「お水取り」にも何度か参加したし、鹿の角切りも面白かった。その中でも、「薬師寺」との縁は切っても切れないものになっている。
薬師寺は法相宗の大本山であり、天武天皇により発願、持統天皇によって本尊開眼され、その後、平城遷都に伴い現在の地に移された。法相宗は南都六宗のひと つであり、唐で大成された唯識教学である。この宗は「阿頼耶識(あらやしき)」という深層意識が心の奥にあるということを認めており、つまり、私達が認識 している世界は、全て自分自身が作り出したものであるというのである。皆、共通の世界に住んでいると思い、同じものを見ていると思うが、実は各々別々のも のであり、10人の人間がいれば10人の世界があると説いている。紀元前7世紀、あの「西遊記」でも名高い玄奘三蔵法師が、17年の年月を費やし、インド にてその教義を修めて帰られ、弟子の慈恩大師によって開創されたと伝えられている。それ故に、薬師寺の年中行事には、玄奘三蔵法師にまつわるものが見受け られる。また、薬師寺には、「薬師如来」「日光菩薩」「月光菩薩」からなる薬師三尊像をはじめとする国宝や重要文化財が数多くあり、訪れる我々の心を癒し てくれる。
歴代の管主の中で、高田好胤管主は最も強く記憶に残っている。彼の説法は楽しく強烈であり、講演も拝聴したことがある。管主時代は、毎年、太平洋戦争戦没者慰霊法要のため、世界各地を巡礼して回った。また、彼が始めたことにお写経勧進がある。
薬師寺にはお写経道場がある。受付で勧進料を納め、輪袈裟をいただく。足音だけが聞こえる静まり返った廊下を行くと「丁子」があり、それを口に含み「香 象」を跨ぐ。丁子は身体の中を清めるために、香象は体の全体を清めるものらしい。100人以上も入れる道場の中では、既に何人かがお写経をしている。が、 その気配は全く感じない。硯で墨を摺る。使い古した筆でお写経が始まる。異次元の中で時間が過ぎてゆく。書き終えて仏様の前に納め、手を合わせる。そっと 心の中で「光明真言」を唱える。「おんあぼきゃ…」。
私と薬師寺とが結ばれていることを感じる一瞬である。

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  91.私の中の龍馬

私と龍馬は、『司馬遼』によって紹介され、もうかれこれ30数年の付き合いになる。付き合えば付き合うほど得体の知れない人物で、その都度、新鮮さを私に運んでくれた。あれほど私が忠告したにもかかわらず、身辺の警護を怠り、彼は33歳でこの世を去ってしまった。
歴史上の人物で、私が到底敵わなくて、無条件で尊敬する人物が3人いる。1人は『カエサル』(英語名シーザー)であり、もう1人は『織田信長』で、いま1 人が『坂本龍馬』である。この3人にはいくつかの共通点がある。1つ目は、あまりに人間としてのスケールが大きすぎて測るメジャーがない。2つ目は、女性 によくもてたことである。カエサルには『クレオパトラ』、織田信長には『吉乃』、龍馬には『お龍さん』の如くである。3つ目は、3人とも暗殺されることで ある。カエサルは元老院の議事堂で、信長は本能寺で、龍馬は近江屋で、それぞれ非業の死を遂げる。
歴史に《もし》はないのであるが、「もし彼らが天寿を全うしていたら、その後の世界はどのようになっていたであろうか」という思いにしばし耽ってみると、 まず間違いなく、初代ローマ皇帝は『オクタビアヌス』ではなくなっていたであろう。そしてカエサルがもっとスピーディに、シンプルなわかりやすい帝国を創 り上げていたと思う。もしかして1200年ではなく、もっと長くローマ帝国は続いていたかもしれない。何せ彼は《全て》がわかっていたのだから。信長の場 合、断言できることは、江戸時代などという停滞した煩わしい時代(文化面ではなく政治経済という意味において)を飛び越して、一気に明治のような近代社会 を創り上げていたであろうということ。何せ彼は《サイエンティスト》であり《超合理主義者》であるから。
龍馬の場合はどうであろう?戊辰戦争や西南戦争は起こらなかったと思うし、経済的に自立した『日本国』が形成され、日清戦争や日露戦争も回避でき、国際社会に認知された国になっていたような気がしてならない。何せ彼の世界観は《誰も持ち合わせていない》大きさだったから。
今年のNHKの大河ドラマは『龍馬伝』である。「岩崎弥太郎から見た」龍馬らしい。福山雅治さんが1年をかけて、『龍馬』と対話しながら創り上げていくという。年末にはどんな龍馬になっているか、大いに楽しみである。

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  90. 西郷どん

「西郷どん」という飯屋がある。場所は、国道29号線を青山から5~6キロほど鳥取に向けて走った道路沿い。お世辞にも綺麗なお店ではなく、少し強い風が 吹けば倒れそうな建物である。私の記憶では、30年以上変わらぬ佇まいである。今は女主人がひとりで切り回しているが、以前は使用人もひとりいた。これは 推測だが、女主人が気侭に店を開けたり閉めたりするものだから、客足も減り、見合う給金が払えなくなって辞めたのではないかと思われる。月に1度くらい昼 飯を食べに行くのだが、行く前に必ず電話を入れる。店を開けているかどうか確認しないと、昼飯にありつけないからである。
その店ではカウンターに座るが、オーダーをする必要はない。黙っていても、湯がいた多めのキャベツに網焼きの肉が4~5枚、アサリのみそ汁、きゅうりの一 本漬け、それと白飯が出てくる。キャベツの湯がき具合が良く、とにかく甘い。牛肉は保存期間がちょうど良いのか食べ頃である。アサリは大きくて充分に砂を 吐かしてあり、味噌は自家製だと思われるが、香りといい塩加減といい絶妙である。それに、何と言っても、きゅうりの一本漬けが最高である。時々、女主人が 横着をして、前の夜に漬け忘れるのであろう、「ごめん、今日はきゅうりない」とそっけなく言う。その時ほど腹立たしく思うことはない。客という意識はな く、振る舞っているという感覚である。
この年になると、「あと何回食事ができるであろう」と、食い意地の張った私は思ってしまう。1回でもまずいものを食べると、とんでもなく損をしたような気 分になる。ラーメンは「長浜ラーメン」、うどんは「かな福」、カレーは「大樹」、そばは「床瀬」、天ぷらは「錦」、フレンチは「北野」、寿司は「茶々」、 ステーキは(残念ながら主は亡くなったが)「マックオー」…。数え上げればきりがない。
「明日地球が滅びるとしたら何を食べるか?」と問われたら、「う~ん」と考えてしまう。長男に同じ質問をしたことがある。彼は躊躇なく「そば」と応えた。 彼はそばアレルギーだから、そばの味を知っておきたいというのである。私は「かな福」のざるうどんか、「茶々」のトロか、まだ迷っている。
「何が好きですか?」とよく聞かれる。私は「美味しいものが好き」と答える。本当に美味しいものを口にした時は、思わず笑ってしまいますよね。

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  89. 宗教についての雑感

香山家は代々仏教徒であり、その宗派は浄土真宗・西本願寺派である。この1年の間、神戸新聞に掲載された五木寛之(彼は近年、浄土真宗の研究で広く知られ ている)の小説『親鸞』によると、開祖までの道程は困難を極めたようである。親鸞は幼名を『松若丸』と言い、9歳で得度し『範宴』(はんねん)と称して比 叡山に登り、20年間血の滲むような修行を積むが、自力修行の限界を感じるようになる。29歳の時に叡山を下りて法然に巡り会い、専修念仏の教えに触れ る。100日の間、聴聞のため通って入門を許され、『綽空』(しゃっくう)の名前を授かる。5年後には『善信』と改名するが、その頃より弾圧が厳しくな り、後鳥羽上皇は1207年に専修念仏を禁止し、法然は土佐へ、親鸞は越後へ流罪となる。5年後赦免になり、法然は帰京し80歳で亡くなっている。親鸞は 越後から東国にかけて布教活動をしながら、60歳を過ぎてから都に戻った。帰京してからはもっぱら著作活動に専念し、90歳で入滅するが、本願寺の成立を 見るまでには10年を待たねばならない。
世界の宗教は、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教の四つに大きく分けられると思う。元々宗教とは「如何に生きるべきか」「どうすれば人間は救われ るか」という教えである。私の子供達が一人暮らしをするため巣立っていく時に、「色々な誘惑や勧誘があると思う。その一つに宗教もあるだろう。信仰は自由 だから何を信じてもいいが、その判断基準は、①お金を必要とする宗教はまずよくない。②他の宗教を完全否定するのもおかしい。③しつこすぎるのも疑問であ る」と言って聞かせた。
今も世界の地域では戦争が絶えない。その多くが民族紛争か宗教戦争である。テロや独立など様々にその理由を掲げてはいるが、根本はいずれかである。本来人 を救うべき宗教が殺し合いをして一体どうするのか…と、叫びたくなる。世界で多くの信者を持つキリスト教が最初に犯した罪は『二ケア公会議』だと思う。ア リウス派とアレクサンドリア学派との対立を裁いた会議であるが、ローマ皇帝コンスタンチィヌスがアレクサンドリア学派を正教としたのである。宗教が政治に 関与して栄えた歴史は世界には見受けられない。結果、ローマ帝国の滅亡を早める原因の一つになったのである。
親鸞もキリストもマホメットも、その最初の教えは崇高であった。地球上で戦争が消え、飢えで子供たちが亡くならない時代を早く見たいと願っている。

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  88. 司馬遼太郎との出会い

もう40年以上も前のことである。私がまだ中央大学の学生だった頃に、そんなに親しい間柄ではなかった『丹羽』という男から、「香山、お前、遊んでばかり いないでこれでも読め」といって手渡されたのが、司馬遼の『国盗り物語』だった。当時2~3年読書から遠ざかっていた私だったが、それを機会に眠っていた 読書熱が呼び起こされたのである。一気に読み終えた私は、彼が住む三鷹のアパートを訪れた。今でも覚えているが、彼の部屋は薄暗く、3畳のこ汚い空間には 万年床がそのままに放置されており、ありとあらゆるジャンルの書物が山積みにされていた。その時から私の大学生活に、マージャンと落語に読書がプラスされ たのである。
司馬遼太郎は本名を『福田定一』といい、1996年2月に72歳で亡くなっている。『菜の花の沖』という小説にも書いている通り、菜の花が大好きで、彼が 亡くなってから有志の人達で開催された『お別れの会』では、参列者は菜の花を献花した。ペンネームの由来は、「中国の歴史家・司馬遷に遠く及ばず」という 意味だそうである。主に歴史小説を書いてきたが、『韃靼疾風録』を最後に小説からは遠のき、その後は「日本とは、日本人とは何か」を問うた文明批評を行っ た。1993年に文化勲章を受章している。
彼の小説はほとんど読破したが、何を一番にあげるかと問われたら、やはり『坂の上の雲』である。前段の『正岡子規』のくだりも捨てがたいが、なんといって も『旅順港』を絡めた『203高地』陥落時の『児玉源太郎』の活躍である。そして、それが日本海海戦へと繋がっていくシーンは鮮明にイメージする事ができ る。私は何度となく人前で、ウラジオストックから朝鮮半島を経て旅順港へと世界地図をなぞって、弁士の如く、日露戦争の意義やその当時置かれていた日本の 立場を語った。「天気晴朗なれども波高し。皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」。もう『秋山真之』になった気分である。
その『坂の上の雲』が、いよいよこの秋にNHKで放映される。生前、司馬遼が決して許可しなかったのであるが、奥様の同意を得て、この度ドラマ化が実現したのである。先日、キャスティングが発表されたが、それについては私の家族でも喧々諤々である。
入社式には必ず『二十一世紀に生きる君たち』を朗読している。『街道を行く』もまだ読み切っていない。私と司馬遼とのつき合いはまだまだ続きそうである。

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  87. 六十の手習い

「四十の手習い」と申しますが、実はお茶を習っています。もう1年半になりますが、流派は裏千家です。その動機はと申しますと、これからの自分の人生をあ れこれ考えている時、どうしても《茶室》という概念が、私の脳裏から離れなかったのです。茶室を建てるのなら、自分でお茶の一服も点てたいと思ったので す。まあ、2~3年も習えば簡単なお点前くらいは出来るだろう、と高を括っていました。それが大きな間違いであり、驕りだということに気がつくのに時間は かかりませんでした。
10年位前に「初釜」と称して、知り合いのお茶屋さんから野点傘等々を借りてきて、水指や釜を飾り、立札式に会社のギャラリーで4~5年続けて執り行ったことがありました。私の感覚では、お茶碗にお抹茶を入れ茶筅で点てればいい、くらいでした。
いざ、お稽古を始めてみると、先ず正座が出来ない(座布団があると思っていた)。だから席入りもろくに出来ない。お月謝の出し方、お茶菓子の食べ方、お点 前のいただき方、もう全てで戸惑うことばかりでした。今は少し落ち着き、正座も40分位できるようになり、「お棗・お茶杓拝見」までくらいは、何とか耐え られるようになりました。帛紗捌きも、ぎこちないながらも何とかできるようになりました。
茶道と言えば『千利休』ですが、歴史的には8世紀頃、遣唐使により中国から伝わったとされています。平安時代から鎌倉時代は僧侶の間でもてはやされ、室町 の時代になり、武家達も嗜むようになりました。利休は堺の裕福な商人の家に生まれ、『武野紹鴎』に師事し、『わび茶』を完成したと伝えられています。その 後『利休居士』は多くの門人を排し、最後は秀吉と《茶の心》の決定的な違いにより、自刃に追い込まれてしまうのですが、そのわびの精神は孫に当たる『宗 旦』へと受け継がれ、『今日庵』を創設し、現代に至っています。 利休居士は様々な教えを我々に残しておりますが、それは『和敬清寂』に集約されております。お互いが仲良くし、敬いあい、清らかで、動じない心で接するこ とがまさしく茶道の心と説いております。
ほんの軽い気持ちで始めた《お茶》ですが、当たり前のことですが、未だ霧の中にいます。その霧が多少なりとも晴れるまでは続けようと思っています。5年後 か、10年後か全く見当もつきませんが、せめて《茶道》になるまで、私の「六十の手習い」は続きそうです。 明日はお稽古日です。「炉」から「風炉」に変わっているはずです。「引き柄杓」って?情けない茶人です。

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  86. 会社の目的

「四十にて惑わず」と云う言葉がありますが、昨年還暦を迎えた私は、振り返ってみれば、悩み、迷い、惑ってばかりのこれまでだったように思います。しかし、やっと「会社の目的」「ミッション(使命)」が鮮明に解りました。
今まで私は「良い企業」「良い経営」とは…について、明解な答えを持ち合わせていませんでした。「利益の多い会社」が良い企業なのだろうか?「売上が大き い会社」なのか?「有名な会社」や「従業員の多い会社」なのだろうか?そのいずれもが私にはピッタリしていませんでした。
私は或る人の話をヒントに深く考えました。「良い企業」「良い経営」は人間が織りなすドラマであり、人生そのものなのだ…というふうに思いを巡らせまし た。という事は「人生」とは…を考えないと結論には至らない、それはまさしく哲学そのものなのです。人生における最終目的を考えないと、企業も経営も会社 の目的も理解する事はできないのです。
では、人生における人間の最終目的は何か…という事ですが、それは明瞭です。「幸せになる事」です。すなわち「良い企業」「良い経営」とは、それに関わる 全ての人、当社グループにおいて具体的に申し上げますと、先ず社員、社員の家族、協力業者の方々とその家族、そしてお客様が幸せになる事が、良い企業であ り、会社の目的である…というのが私の出した結論です。
では「幸せ」とは…と言う命題は、また、難しいものがあります。それは一人一人「value(価値観)」が異なるからです。ここで具体的な例を紹介しま す。弊社にN君という現場担当者がいます。彼は大変真面目で、お客様からも営業からも、また同僚の信頼も厚い、なかなか立派な工事管理者です。しかしある 時、「この間、急な打ち合わせが入って、子供の運動会に行く事ができなかった」と、残念そうに愚痴をこぼしていたと言うのです。以前の私なら「何を甘い事 を言っているのだ。仕事優先が当り前や」と言ったと思います。しかし、今は「運動会に行きなさい。そちらの方が大事や」と言うでしょう。彼にとって何より の幸せが、家族とのふれあいなのです。その幸せを犠牲にしては決して良い企業とは言えません。
企業の目的は「関わり合う全ての人が幸せになること」なのです。売上等々は手段なのです。私は現在「リストラ」と称して、様々な大企業が行っている合理化に心を痛めています。六十才にして何かわかりかけてきたように思っています。

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  85. 『姫路市芸術文化奨励賞』を頂いて

去る3月27日に、姫路市内のホテルで『姫路市芸術文化賞』の表彰式ならびに懇親会が執り行われた。その中で私は『芸術文化奨励賞』を頂いた。長年にわた り姫路地方の文化の発展に寄与した、というのが主な受賞理由である。実はその1ヶ月半程前に市の文化交流課から連絡があり、新聞にも掲載されてはいたが、 いざその当日その場面になると感激も新たな思いであった。
社屋を新築するにあたり1階にギャラリーを併設したのをきっかけに、芸術文化に接するようになった。もう22年が経過しようとしている。まあ、よくもここまで来られたものだと自分でも感心する思いである。
~この度、ギャラリー『ルネッサンス・スクエア』を開館し、地域文化に微力ながら貢献したいと考えております。当ギャラリーは、造形的表現活動に対して トータルに考える点から、絵画・彫刻・工芸等の純粋芸術のほか、建築・工業・インテリア・商業・服飾・織物デザイン等の生活造形に関する領域も含め、幅広 い視野で企画展示を行い、皆様にご観覧を得たいと思っています。また、地域の造形作家の皆さんに創作発表のスペースを提供し、自由に広く活用していただき たく思っております~をコンセプトに、『ルネッサンス・スクエア』は1987年9月にオープンした。
思い出に残る催し物としては、こけら落としに行った『シルクロード展』、『インドミィテラー地方の民族画展』、『安藤広重の浮世絵展』、寝ずの番をした 『福富コレクションによる美人画展』、シリーズになっている『現代作家展』、同じく『ポートレート展』などがある。その他数え上げればきりがないが、あら ゆるジャンルの作家による250以上の企画展覧会を行ってきた。開館当初から私の希望であり、それが行いたくてギャラリーを創設したのであるが、今年で 22回を迎える『こどもの絵画展』と年末の『チャリティー展』は、多くの人々の認知するところとなった。
開館当初から本当にお世話になり、そのご恩を返せないまま7年前にお亡くなりになられた池内登氏の存在なくして、この芸術文化活動は語ることはできない。 また、何一つ知識も経験もない私を支えていただいたスタッフをはじめ数多くの方々に、心から感謝する次第である。その人々を代表して、今回私が賞を頂くの だと思っている。『ルネッサンス・スクエア』は私が経営の第一線にいる間は続けていくつもりである。その後は後継者が考えればよいと思っている。何せ芸術 文化はお金と時間を極端に消費するものだから…。

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  84. 久しぶりの猫

平成17年5月に私共の家族になった2代目猫ちゃん「クロ」(その由来については第62話参照)は、今や完全に女王様である。私がガレージに車を入れる と、彼女は居間の扉の前で身を潜めて私を待っている。ドアを開けるや否や私の足元に纏わりつく。私が着替えることも許さない。「マア~マア~、ニャ~ ニャ~」とにかくうるさい。私がもたもたしていると、私の足にタックルをして、時には転げそうになる。私は冷蔵庫の中のイリコを二切れ取り出し、「しんぶ ん」と叫ぶ。彼女は一目散に居間の床に放り出してある新聞紙へ走る。私もすぐにはイリコを与えず、「ありがとうは?」と言うと、健気にも私の手の甲に小さ な頭を数回摺り寄せる。私が新聞紙にイリコを置くと、あっという間に平らげてしまう。それで私の役目は終わる。気がつく頃には2階へ上がっているか、今の 時期ならコタツの中へと潜り込んでしまっている。とにかく愛想がない。
キャットタワーで寝そべっている彼女にも腹が立つ。私が「く~ろ~ちゃ~ん」と長く呼ぶと、長い尻尾を大きくゆっくり長く振って応える。反対に短く「クロ チャン」と呼ぶと、4分の1拍子くらい素早く尻尾を振って応える。馬鹿にされているのやら、遊ばれているのやら…。
時々、それも気が向けば、私の胡坐の中で腕を枕に、何十分もうたた寝をする。腕が痺れてきて、そっと隣の座布団にでも移そうとしようものなら、「アアン」と言って私の手を噛むのである。
家内が洗濯物を畳んでいると、どこからともなく現れて《お手伝い》をする。家内が「もう~邪魔せんといて」と言うと、余計に《お手伝い》をし、畳んであった洗濯物の山は崩れ去っていく。
とにかく我々夫婦はクロに完全に見透かされている。話す会話の半分くらいはどうやら理解しているようだ。最初の頃カーテンや網戸を破っていたが、繰り返し それを注意し諭すと、今はまったく破らないようになったし、私か家内がどちらか留守をする時、「今日お母さんはいないからね」と言うと、そのようにあまり わがままを言わずに振る舞うのである。
初代猫ちゃん「カーコ」同様、家からは一歩も出さず《箱入り娘》で育てている。しかし、《自立》という点においては、遥かに我々人間よりも優れている。

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  83. 高野山への旅

お四国八十八ヶ所満願成就の興奮も冷めやらない11月29日、私は無事お遍路を終えた報告とお礼のために高野山へ向かった。
高野山は真言密教の霊場である。開祖はもちろん弘法大師で、弘仁7年(816年)勅許を賜った後、弘仁19年(819年)高野山上七里四方に結界を結び、 伽藍建立に着手し、最初に『妙神社』を建立したと伝えられている。その後いく度かの歴史を経て、秀吉公の母堂の霊を弔うために、木食応其上人(もくじきお うごしょうにん)に命じて建てさせた菩提寺が明治の世になり『金剛峰寺』と改名され、現在の総本山金剛峰寺に至っている。
自宅から高野山までは200キロそこそこの道程だが、半分近くが一般道とカーブの多い山道のため、到着まで3時間半程を要した。山頂は広々とした町で、平 日だというのに観光客で賑わっている。駐車場に車を停め昼食をとった。目指す奥の院までは2キロくらいである。用意してきた白衣を身につけ、輪袈裟を首に かけ、納め札や教本、納経帳、蝋燭にお線香の入ったずた袋を肩にかけた。鬱蒼とした木立の中を、木漏れ日を浴びながらゆっくりと歩いていく。歩道の脇には 色々な立派なお墓が立ち並んでいる。大企業の経営者の墓はもちろん、歴史上の人物としては秀吉、家康をはじめ、上杉謙信、武田信玄公、また石田三成の墓も ある。誰がどのような経緯で供養したのかは知る由もないが、呉越同舟で皆仲良くお酒でも酌み交わしているかもしれない、などと思った。
承和2年(835年)弘法大師はお亡くなりになったとされているが、奥の院には入定信仰が今も残っている。東寺長者の観賢が醍醐天皇のお言葉を伝えるため に高野山に上られた際に、奥の院の廟窟を開かれたところ、生き生きとしたお姿で禅定に入っておられる大師様に会われたそうである。その伝説は後に、藤原道 長が高野山に上られてから急速に広がり、今日に至っており、ご詠歌にも「ありがたや、高野の山の岩かげに、大師はいまもおわしますなる」と詠われている。
奥の院で納経帳に記帳してもらい、朱印を押していただいた。その斜め横を、半紙を紙縒りでマスクにして、奉るように恐る恐る三方を抱きながら、格子戸の中に消えていく僧を見た。格子戸越しにふくよかなお顔をされた高貴な人物が、私に微笑みかけた。

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  82. 八幡ネットワーク近況報告

去る10月1日に、資本金6千万で、「良いものは継承しつつ、私たちは新しく生まれ変わります」をキャッチフレーズに、『八幡コーポレーション株式会社』 という会社が誕生いたしました。この会社は、従来の八幡建設における住宅部門を分社化し、独立させたものです。もちろん八幡建設はそのまま残りますが、た だゼネコン部門のみを担当いたします。
5年前、2003年7月1日に、全く私の中では予期していなかった、八幡建設の経営を義弟から引き継ぐという事態になり、それ以来、色々と試行錯誤を繰り 返し、様々な構造改革を行ってまいりました。そして2年前、一応の目途がついたこともあり、「社長の兼任はできない」という私の経営ポリシー(そもそも社 長というものは、その会社においてあらゆる全てのことを把握し理解し、最も働かなければならない。だから兼任はできないし、するべきではないと私は思って いる)から、家氏君に社長をお願いしたのであります。
《少数精鋭》という言葉がありますが、私は「少数にすれば精鋭になる」と思っているタイプの経営者です。古今東西、企業の歴史的背景を考えてみますと、所 詮《集合》と《分散》の繰り返しだと思っています。色々と理屈を並べてもっともらしい根拠を挙げますが、その根本は企業のトップの独断によるところが大 で、形態としては《合併》や《分社》として現れます。パナホーム兵庫を根として巣立っていった会社、『リフォーム兵庫』『ガーデン兵庫』『カーペンターズ 兵庫』はその使命を今のところ発揮し、立派に成長しつつあります。それらの成功体験を踏まえて、このたび分社に踏み切り、八幡建設における一連の構造改革 の最終章としたのです。
主たる目的としましては、住宅事業・ゼネコン事業のそれぞれに特化し、よりお客様の視点に立った価値と満足をお届けすることにあります。私が八幡建設の経 営に携わった5年間の経験を通じて、根本的に住宅とゼネコンとは相容れない価値観を肌で感じたからです。たとえば、《お客様》の定義にも相違点がありま す。住宅は明確です。建てていただくお客様そのものですが、ゼネコンの場合は、時にはお役所だったり、法人や設計事務所だったりします。また協力業者会と の接し方も若干違います。ならば、それぞれの分野において合った価値やサービスをご提供した方が、より良いご満足をお届けできるのではないかと思ったので す。
思えば42年前、私の父がたった7人で『八幡建設』という企業を興こしました。現在8社のネットワーク企業があり、従業員も330人を数えるまでに成長さ せていただきました。これはあらゆる《建物》を通じて私どもと関わっていただいた《お客様》のお陰でございます。改めまして厚く御礼申し上げます。次に、 拙い、時には我が儘な経営者に協力し、ついて来ていただいた社員、そして協力業者の方々、この場をお借りして、心より感謝申し上げます。
私は残された時間を、私の全てのエネルギーと魂を、事業経営に奉げる事をお約束いたします。

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  81. お遍路日記XXⅧ

第八十五番『五剣山八栗寺(ごけんざんやくりじ)』まではタクシーで十五分足らずの道程である。正確には麓までと言うべきであるが、そこからケーブルに乗 り山頂駅まで五分ほどで着く。五剣山は標高375mの山で、壇ノ浦を挟んで屋島と向かい合っている。開祖は弘法大師で、ご本尊は「聖観世音菩薩」である。 本堂の左手前には聖天堂があり、そこには「歓喜天」が祀られている。高さ15m余りの黄金像だそうだが、秘仏であるが故に我々は見ることはできない。ま た、多宝塔はカラフルで美しい。
第八十六番『補陀落山志度寺(ふだらくざんしとじ)』は潮の香りが漂う、瀬戸内海の海辺近くに立つ古刹である。威風堂々とした本堂と仁王門。本堂の左手に は昭和50年に建立された朱塗りの五重塔があり、比較的新しい建物だが不思議によく溶け込んでいる。ご本尊は「十一面観音」だが、その脇仏である「不動明 王」「毘沙門天」は平安初期の作とされており、国の重要文化財にもなっている。また志度寺には海女の悲しい物語が伝えられており、その供養のため「海女の 墓」が20基も残っている。
第八十七番『補陀落山長尾寺(ふだらくざんながおじ)』のどっしりとした風格のある山門は鐘楼門で、門の中に釣鐘が下がっており、広々とした境内には樹齢 800年の楠や枝振りのよい松がある。毎年1月7日には三本の宝木を若者達が奪い合う『福奪い』という行事があり、同じ日には『大鏡力餅』の競技も行わ れ、広くテレビなどでも報じられて人気を博している。また、長尾寺は静御前が義経と吉野の山で別れてから各地をさまよった後、得度を行い、その余生を送っ たと伝えられているお寺でもある。
結願の寺、第八十八番札所『医王山大窪寺(いおうざんおおくぼじ)』まではタクシーで小一時間の距離である。門前には多くの土産物屋や食堂が並んでおり、 お遍路の姿でにぎわっている。その表情はみな晴れやかで輝いている。言葉は要らない。ここまでやり遂げたものにしかわからない共通の言語があり、それで充 分会話になる。私は本堂と大師堂で、様々な思いを込め般若心経と光明真言を唱えた。納経帖に記帳をしてもらうと、満足感とともに寂しさもよぎった。いよい よ『同行二人』の旅が終わる。札堂に私とこれまで伴に遍路をしてきた『金剛杖』を奉納した。そこでもう一度般若心経と光明真言を唱えた。不思議と涙はな かった。
こうして私の第一回のお遍路の旅は終わった。2000年11月18日のことである。今から8年前になる。当時は52歳だった。今2008年7月7日。丁度 昨日60歳の還暦を迎えた。あらゆるものから解放された4年後、私は再びお遍路の旅に出る。そのときはもちろん歩き遍路である。もう胸の鼓動が聞こえる。

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  80. お遍路日記XXⅦ

昨夜旅館で手配をしてもらっていたタクシーに乗り、朝七時前に「城山温泉」を後にした。今日は一日タクシーを貸し切る段取りなので、その料金を交渉する。 第八十番『白牛山国分寺(はくぎゅうざんこくぶんじ)』までは十五分足らずである。全国の国分寺同様この讃岐国分寺も、聖武天皇の勅命によって建立された ものであり、行基が「十一面千手観音」を安置し開祖したと伝えられている。仁王門をくぐると境内は広々としており、その両脇には松並木が続き、さらに進む と右手に鐘楼堂がある。そこにある鐘は四国最古とされており、鐘にまつわる大蛇の伝説も残っている。早朝にふさわしい札所で、清々しい天平の面影を残した 古刹である。
第八十一番『綾松山白峯寺(りょうしょうざんしろみねじ)』は、崇徳上皇のエピソードが数多く残っている札所である。実父である後鳥羽天皇には愛されず、 実弟の後白河天皇によって讃岐の地に流され、悲運のうちに崩御された崇徳上皇の遺体は、この白峯寺に運ばれ荼毘にふされ、現在も御陵として残っている。白 峯寺のご本尊は四国唯一の「千手千眼観自在菩薩」で、その真言は『おん ばざら たらま きりく』。白峯山の中腹に位置し、今もしっとりとした佇まいが 残っている札所である。
第八十二番『青峰山根香寺(あおみねざんねごろじ)』は、智証大師が千手観音を刻みご本尊としたのであるが、その木が香木で根っこの部分がとてもよい香り がしたところから『根香寺』と名づけられたそうである。本堂は回廊式になっており、その回廊には33,333体の観世音小像がびっしり並び、庭園には葉が 五色に染め分けられたように色づくという「五色もみじ」の木もある。
第八十三番『神亳山一宮寺(しんごうざんいちぐうじ)』の仁王門には大草履が奉納されており、そのほかにも千羽鶴や涎掛けなどもあり、地元の人から慕われ ている様子がうかがえる。本堂の前には地獄に通じるという穴があり、ここから地獄の釜の音が聞こえるそうである。罪深い人間は頭が抜けなくなるとのこと で、私は遠慮をした。
第八十四番『南面山千光院屋島寺(なんめんざんせんこういんやしまじ)』は源平合戦の歴史の中にある。平家最後の戦いの舞台になった壇ノ浦の古戦場も眼下 に一望できる。あの唐の名僧・鑑真和上が開祖した札所としても有名である。私は源平の戦で命を落とした多くの人たちの霊を供養するという気持ちも込めて、 般若心経を唱えた。

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  79. 修・破・離

私には『十八ヶ条の憲法』と称して、企業経営に関する基本的な物の考え方を示したものが在る。その最後の十八番目に「物事は、"修・破・離"で成就されている。野焼きこそまさしく"破"であり、"離"すなわち新しい芽である」と記している。
今現在は平成の大合併で「宍粟市」となってしまったが、私の生まれ育った故郷が「宍粟郡山崎町」といっていた時分に当時の町長から依頼を受け、《明日の山 崎町を考える》という街づくりプロジェクトに参加した時のことである。そのプロジェクトのリーダーで、本職は住職だが中学校の校長も歴任された上村元正先 生に教わったのであるが、物事が成就する道程は"修・破・離"という段階を踏む。"修"とは勿論修行という意味で、先ず『修める』段階である。"破"とは 読んで字の如く『破る』『破壊』することで、色々と年月をかけて多くのことを学び、積み重ね習得したものを一度粉々に破壊してしまう段階を踏まねばならな い。今風に言うならパラダイムチェンジである。そして最後に"離"であるが、あらゆる囚われから離れ、言い換えれば『空』になり、観つめ直し、そうし得た 者だけが道を極められ本物になれると教えられた。15年以上前のことである。
私はその教えを説かれたとき、あらゆる"もやもや"が一気に晴れたことを今でも鮮明に覚えている。私はその時からである、「悩みはあるが、迷いはない」と 言い切れるようになった。我々のもっとも身近な事例で例えるなら、松下電器がある。『創造と破壊』をテーマに見事に再生させた事例はまだ記憶に新しい。私 は、成功体験など百害あって一利なしと、真剣に思っている。過去の栄光は過去なのである。我々には未来を踏まえた、《今》という現在しかないのである。
私はしばしば友人達に「お前は何を考えているか解らない」と言われる。全国で唯一総合展示場を持たない住宅販売会社、それを理解される日はまだ遠いようである。
 

●(株)日本実業出版社『経営者会報6月号(№660)』掲載文

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  78. お遍路日記ⅩⅩⅥ

第七十七番『桑多山道隆寺(そうたざんどうりゅうじ)』には読んで字のごとくの伝説が残っている。昔、和気道隆が自分の桑畑に来てみると、怪しい光を発す る一本の桑の木があった。彼は不審に思い矢を放つと、たちまち光は消え、その代わりそこに乳母が倒れていたのである。道隆は余りの悲しさにその桑の木で 「薬師如来」を刻み、堂を建て安置したのが、道隆寺の開祖となった。その後、弘法大師がその地を訪れ薬師如来を刻むと、道隆が刻んだ薬師如来が胎内仏とな り、「二体薬師如来」として安置されている。広大な境内には二百七十余体もの観音像が奉納されており、優しく澄んだ空気が漂っている。心休まる札所であ る。
第七十八番『仏光山郷照寺(ぶっこうざんごうしょうじ)』は高台にあり、瀬戸大橋が一望できる。郷照寺はお四国霊場唯一の宗派・時宗で、開祖は行基。ご本 尊は「阿弥陀如来」である。郷照寺はまた厄除け寺としても広く信仰を集め、私もそれがご縁で七年来厄除け祈願のお札を納めさせて頂いている。
第七十九番『金華山天皇寺(きんかざんてんのうじ)(高照院)』の名前の由来は、讃岐に流された崇徳上皇の死を都に伝える間、棺をこの寺に安置したことに よる。その間、崇徳上皇の遺体の損傷を防ぐために使われたとして、「八十場の泉」が今も残っている。天王寺のあたりは森閑としており、崇徳上皇の数奇な運 命が感じられ、静かで物悲しい札所でもある。
タクシーに戻り運転手に「どこか泊まるところはないか」と尋ねると、「少し行った所に良い温泉場があるが、余り部屋数がないので空いているかどうか分から ない、どうするか」と言う。私は運転手に予約を入れてくれるように頼んだ。運良く部屋はあるとのことで、そこに泊まることにした。
二十分程走ったであろうか、「城山温泉」という宿に着いた。人の好さそうな女将さんが愛想よく迎えてくれ、「どこから来たのか」とか「何番まで打ったの か」とか「なぜ一人なのか」とか、部屋に案内されてからもいろいろと気遣ってくれた。到着したのが五時を少し回っていたので、食事は七時にお願いをした。 温泉は弱アルカリで肌に優しくなかなか良いお湯だった。心身ともに久しぶりに生き返った。夜の食事も、川魚を中心に辺りの山菜をまじえて、遍路をしている ものにとって負担のかからない配慮がうかがえた。明日はいよいよ八十八番『大窪寺(おおくぼじ)』まで打つ予定である。お四国最後の夜にふさわしい宿に なった。

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  77. お遍路日記ⅩⅩⅤ

第七十三番『我拝師山出釈迦寺(がはいしざんしゅっしゃかじ)』までは徒歩でも5分そこそこの道のりである。出釈迦寺には空海が5~6歳の頃、幼名を「真 魚」といっていた時代の伝説が残っており、釈迦如来との出会いが伝えられている札所である。第七十四番『医王山甲山寺(いおうざんこうやまじ)』の近くに は『満濃池』がある。この池は、水に恵まれなかったこの地域に、821年に弘法大師が満濃池別当に任じられ赴任してきて、わずか3ヶ月で完成させたと伝え られている。
いよいよ第七十五番『五岳山善通寺(ごがくざんぜんつうじ)』である。善通寺は弘法大師生誕の地である。45万平方メートルという広大な敷地は、もともと 父・善通卿の荘田だったそうである。境内は道路を挟んで東院(伽藍)と西院(誕生院)に分かれている。東院には金堂、五重塔、釈迦堂、五社明神、足利尊氏 利生塔、三帝御廟などがあり、樹齢千年を超す楠木もある。また東院には東の赤門、西の中門と南大門があり、自分がどこから入ったのか迷子になりそうであ る。
西院の仁王門を入ると正面には御影堂があり、大師生誕にまつわる伝説が数多くある。御影堂の地下に設けられている戒壇巡りをしてみる。そこは漆黒の闇で、 前方を歩く人の姿も見えない。やがて息苦しくなる。私は光明真言を心の中で唱えながら、壁伝いにゆっくり歩を進めた。どのくらい歩いたであろうか、やがて 前方に光らしきものが見え始めた。己の身に何か悪行があればその闇から出られないそうで、心底ほっとした。地元の人たちは善通寺を「お大師さん」と呼ぶそ うである。まさしく善通寺は弘法大師そのものであると思った。善通寺のご本尊は勿論「薬師如来」で、その真言は『おん ころころ せんだり まとうぎ そ わか』である。
善通寺に後ろ髪を引かれながら第七十六番『鶏足山金倉寺(けいそくざんこんぞうじ)』に着く。善通寺とは違って閑静な札所である。その分、趣があり心が休 む思いである。金倉寺には、乃木将軍が善通寺十一師団長を務めていた頃、東京から奥様がはるばる訪ねてきたにもかかわらず会わずに帰し、奥様がしばらく佇 んでいたという「乃木将軍妻返しの松」がある。彼の厳格な性格の一端を表すかのようなエピソードである。
雨は相変わらずしとしとと降り続いている。タクシーに戻ると運転手が「今日は、あと何番打たれますか」と尋ねた。私は時計を見ながら「そうですね、三番位 にしましょうかね」と答えた。明日で終わる。寂しさがそっとよぎった。

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  76. お遍路日記ⅩⅩⅣ

第六十八番『神恵院(じんねいん)』と第六十九番『観音寺(かんのんじ)』は同じ場所にあり、『七宝山(しっぽうざん)』という山号を持っている。仁王門 も一緒で、上に位置しているのが神恵院であり、階段を下りると観音寺である。開祖はどちらも日証上人であるが、ご本尊は神恵院が「阿弥陀如来」で、観音寺 は「聖観世音菩薩」である。しかし、ご本堂と大師堂はいささか趣が違う。神恵院はごくありきたりの建物であるが、観音寺は朱色の柱や梁が印象的な建物であ る。また観音寺には枯山水の立体庭園『巍々園(ぎぎえん)』があり、参拝者の心を癒してくれる。観音寺の眼下には有明海岸が広がり、その砂浜には「寛永通 宝」の文字が、周囲350メートル、深さ1.5メートルにわたって彫ってある。このレリーフは、その昔寛永時代に讃岐藩主がこの地を訪れるというので、付 近の住民が一夜で作り上げ、今に伝えられているそうである。
第七十番『七宝山本山寺(しっぽうざんもとやまじ)』のご本尊は「馬頭観音」で、四国八十八ヶ所唯一である。長閑な田園風景の中にあり、遠くからでも境内 にある五重塔はくっきり見える。いくたびかの戦火を免れた本堂は、一重の本瓦葺の重厚な建物で国宝に指定されている名刹である。
第七十一番『剣五山弥谷寺(けんござんいやだにじ)』は、死者の霊が行く山として信じられている札所である。仁王門をくぐると260段の石段が続く。その 両脇には無数の石仏、石塔があり、賽(さい)の河原と呼ばれている。上りきったところに「金剛拳(こんごうけん)大菩薩像」が建っているが、そこから大師 堂、本堂までは天を突くような長い石段が延々と続く。左手で手摺りにつかまり、右手は金剛杖をつきながら、一歩ずつ登っていく。だんだん息が荒くなってい く。途中、多宝塔、観音堂、弘法大師が修行した岩窟の護摩堂があり、岸壁に浮き彫りにされている磨崖仏も神秘的であった。やっとの思いでたどり着き、本堂 と大師堂それぞれに納札をし、般若心経と光明真言を唱える。晩秋の涼風が汗ばんだ私の身体を通り過ぎていく。
第七十二番『我拝師山曼荼羅寺(がはいしざんまんだらじ)』まではあっという間である。山門をくぐると小さな石橋があり、正面に本堂、左手に大師堂があ り、こじんまりとした札所である。曼陀羅寺には弘法大師手植えの松の木があり、樹齢千百年を経てもなお生き生きとした鮮やかな緑で樹形も崩れておらず、 「不老松」と呼ばれている所以である。この不老松に出会えただけでも《お四国》に来た甲斐があったと思いながら、待たせてあったタクシーに乗り込んだ。

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  75. お遍路日記ⅩⅩⅢ

すべての札所に「本尊」があり、その本尊にそれぞれの「真言」がある。お四国八十八ヶ所のうち最も多い本尊は薬師如来で、二十三ヶ寺が薬師如来を本尊とし ている。その真言は『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』である。古代インドのサンスクリットの発音が唐をへて日本に渡ってきたのであるが、実 際は意味不明らしい。私も含めて多くの遍路たちが全ての本尊や大師堂の前で唱える「光明真言」は『おんあぼきゃべいろしゃのう まかぼだらまにはんどまじ んばら はらばりたやうん』で、この真言は一切の仏や菩薩の総呪とされ、その功徳は無量無辺だとされている。
第六十五番『由霊山三角寺(ゆれいざんさんかくじ)』は《菩提の道場》愛媛県最後の札所である。本尊は「十一面観音」でその真言は『おんまか きゃろに きゃ そわか』である。急な石段を登っていくと山門があり、その山門が鐘楼になっている。私はどこかの札所で教えられたとおり参拝前に鐘を撞き、手を合わ せた。本堂にお参りし、やや高台にある大師堂まで足を運び、般若心経と光明真言を唱える。晩秋の四国の山並みには、それでも紅葉の残りをところどころにう かがうことができた。
一気に《涅槃の道場》讃岐の国・香川県に入る。第六十六番『巨鼇山雲辺寺(きょごうざんうんぺんじ)』は呼んで字のごとく雲の中に在る。ご本尊は千手観 音。雲辺寺へはロープウェイで登る。標高千メートルまで七分間の空中旅である。山頂の駅から本堂までは少々歩く。境内は広く、本堂のほかに大師堂、護摩 堂、書院、鐘楼堂などが建っており、鎌倉時代は「四国高野」と呼ばれ四国各地から学問僧が集まり、七堂伽藍と十二坊を備え、末寺も八ヶ寺を有したそうでか つての繁栄が偲ばれる。
第六十七番『小松尾山大興寺(こまつおざんだいこうじ)』までは十キロ足らずである。ご本尊は薬師如来。大興寺は地元では『小松尾寺』と呼ばれ親しまれて おり、横峰寺や雲辺寺のような険しい修行場と違ってのどかな田園風景の中にある。ここ大興寺の境内には四国霊場の中で唯一大師堂と天台師堂が建っており、 いわゆる空海と最澄、真言宗と天台宗が同居している札所である。お四国八十八ヶ所霊場の懐の深さがうかがえる。
納め札を納め、お経を唱え、納経帳に朱印を頂き、本日の宿泊予定である大丸旅館に向かった。その夜のお味噌汁が異常に美味しかったことを今でも覚えてい る。天気予報によると明日は雨模様である。快い疲れの中いつしか眠りに陥っていた。

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  74. わが社のハチドリ計画

森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」 といって笑います
クリキンディは こう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」

(監修:辻信一 発行:㈱光文社)
 

この物語は『ハチドリのひとしずく』というタイトルの、南米地方に伝わる民話です。私はこの本を手にしたとき、体中が震えたことを今も思い出します。還暦を迎えようとしている年齢になった今でも教えられることが多く、自分の未熟さを恥じるばかりです。
この物語と出会う以前からわが社が取り組んでいるエコロジー活動としては、まず『あめにてぃ戦略』と称する単独展示場戦略があります。総合展示場は5年毎 に解体するシステムで、それは強いてはゴミを排出することになり、エネルギーの無駄な消費につながるため、総合展示場からの撤退を宣言し、単独展示場を展 開しているのです。(この単独展示場は解体せずにそのまま売却する)
二つ目は、月1回わが社の駐車場で『三左衛門バザール』というフリーマーケットを開催し、その収益金を市の緑化基金に寄付しています。
三つ目は、月初に姫路駅前からバイパスまでの約2kmを『クリーン活動』と称して、清掃しています。
四つ目は、年に1~2度『松下エコテクノロジーセンター』へお客様をご招待し、見学会を催してリサイクルへの啓蒙活動を行っています。
五つ目は、アイドリングストップステッカーを作成し、『兵庫10万人のアイドリングストップ宣言』と名付けた活動を展開しています。
先日、東北地方へ旅をしました。朝食を取るため食堂に行きますと、ちょうど時間的に混雑しており相席になりました。バイキング形式だったので私はいくつか の料理をお盆に取り席に着くと、向かいにいた婦人は食べ終わったのか席を立とうとしていました。何気なくその婦人に目をやると、彼女は使用していたと思わ れる「箸」を箸袋に仕舞い込もうとしているではありませんか。それは所謂「マイ箸」です。何の気負いも何の衒いもない「マイ箸」の光景を、私は目の辺りで 見たのです。
最近、わが社で「マイ箸クラブ」が結成されました。私も入会しようと思っています。

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  73. 私のホームページについて

私個人のホームページは、大きく分類すると四つのカテゴリーに分かれている。一つ目はこのホームページのほとんどの部分を占める『或る二世経営者の挑戦』 で、私のこれまでの35年間を纏めたものである。凡人が拙い企業経営の中で次々と押し寄せてくる様々な出来事に悩み苦しみ、その中から少々の喜びを見出し ながら今日までに至る奮戦過程を記したものである。二つ目は企業経営に関する基本的なものの考え方を自分なりに十八ヶ条に纏めたものと、経営者はどうある べきかを八ヶ条に記したものである。三つ目は随筆であり、四つ目は小説になっている。数えた事はないが原稿用紙1000枚以上にはなると思う。
この度『或る二世経営者の挑戦』がやっと完成した。拙著は三部構成になっており、第一部は『君は父親を超えられるか』というサブタイトルで、昭和58年 10月から平成5年10月までの10年間を、パナホーム兵庫の経営を通じて私自身が実践したことやその時々に感じたりもがき苦しんだ事を書き記している。 第二部は『豊かさと自由を求めて』というサブタイトルで、平成5年から平成12年即ち二十世紀末までの7年間について書き留めた。第三部は『すべてはお客 様のために』というサブタイトルで、二十一世紀になってから今日までのことを記した。
書き始めた動機は、本格的に企業経営に携わって10年が経過したのを節目に、その振り返りと今後の10年を考えるためと、今ひとつは二世経営者なかんずく 中小企業の二世経営者に多少なりとも勇気を与えることができればという思いからである。文章全体としてはできるだけ平易に随筆風に纏めた心算である。事実 に基づいており、全ての真実は語っていないが、嘘は示していない。
ヤフーでは、『二世経営者』で検索しても、また『香山廣紀』で検索しても最初のページに見ることができる。多少自慢話になるが、月あたり2000件くらいのアクセスがある。
今、私は58歳である。今年の全グループの初出式の席上で、自らを律するためにも取締役の定年制を発表した。それによると私は後5年で第一線の経営から退 くことになる。私は新たに、先ずお客様のために、次いで全従業員のため家族のため自分自身のため社会のために、全エネルギーを費やす決意をした。
 

2007年初夏

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  72. 『流星ワゴン』という小説

『流星ワゴン』という小説を読んだ。一気に読んだ。最近一息に本を読む、という習慣が薄れていたにも関わらずである。テレビで知ったのだと思うが、正式に 本の名前も作者も知らずに本屋へ行って「何とかワゴンだったと思うのですが」と言うと、本屋の店員は「流星ワゴンですね。現在売切れです。ご注文なさいま すか?でもなぜそんなにこの本が売れるのですか?」と逆に質問されたのである。
主人公は今サイテイ、サイアクの状態に置かれている。一人息子は私立の中学受験に失敗し、地元の公立校に入学したがいじめに遭い、もう3ヶ月以上も登校し ていない。そして家庭内暴力を繰り返し、ソファーはカッターナイフで切り刻まれたままで放置されている。妻はテレクラで知り合った身も知らぬ男性と連日の ように逢瀬を重ね、時々は朝まで帰らない日もある。主人公は現在38歳。まさか自分が?と思っていたが会社からリストラされ、職を失っている。故郷の父親 とは物心ついた時分から、考え方や生き方が大々嫌いで殆ど会話らしい会話をしたことがない。父親は土建業から身を起こし貸金業を始め、多くの企業を経営し ている地元の名士である。主人公があとを継がなかったので妹婿が継いでいる。しかし、その父親も今は末期癌で余命いくばくもない。今日は父親を見舞っての 帰りである。父親が心配で見舞ったのではなく、行けば交通費として5万円貰えるから行くのである。家に帰りたくない、このまま死んでもいいや、生きなけれ ばならない理由もないし、と思いながら最終電車で自宅の駅までたどり着き、駅前のベンチに腰を下ろすと、そこへ赤い流星の様なワゴンが止まり、その中から 親子が現れ「おじさん、乗らない?」と声がかかり、誘われるままに主人公はそのワゴンに乗る。
そこからこの物語が始まるのであるが、ワゴンが所謂「タイムマシン」であり、主人公は様々な過去に連れて行かれ、その全ての場面が人生に於ける重要な岐路 を示しており、次から次へと主人公を追い詰めていく。中でも自分と同じ38歳の父親が現れ、色々と織りなすシーンは涙なしには語ることは出来ない。この物 語には三組の親子が登場する。ひとつは主人公の親子、主人公とその父親、ワゴンに乗っている親子(実は5年前に交通事故でなくなっている幽霊)。
人生は後悔の連続である。と同時に捨てたものでもない。主人公は最後に部屋の掃除を始める。私も一歩を踏み出すことにした。この本こそ私にとって「流星ワゴン」そのものであった。

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  71. お遍路日記ⅩⅩⅡ

第五十九番『金光山国分寺(こんこうざんこくぶんじ)』までは僅か5~6キロの道程である。国分寺はそれぞれの国に一つずつあり、伊予の国分寺は唐子山 (からこやま)の山麓にある古刹である。741年に聖武天皇の詔勅により建立され、開基は行基であると伝えられている。寺の歴史は興廃の歴史でもあり、こ の札所も例外でなく四度の火災に見舞われており、その都度復興し今日に至っている。
タクシーの運転手の勧めで、先に六十一番から六十四番を打って、難所の一つである第六十番『石鉄山横峰寺(いしづちさんよこみねじ)』へ向かうことにした。
第六十一番『栴檀山香園寺(せんだんざんこうおんじ)』は鉄筋コンクリート造りのモダンな札所である。建物は近代的だがその歴史は古く、585年頃に聖徳 太子が創建したと伝えられている。本堂はまるで大聖堂のようであり、大師堂もその中にある。御本堂は大日如来であるが、大聖堂の右手奥にある子安大師堂の 方がよく知られており、安産、子育ての札所として人気を集め、広く海外からも信仰を得、その信徒は四十万人を超えると言われている。
第六十二番『天養山宝寿寺(てんようざんほうじゅじ)』の御本尊は十一面観音であり、弘法大師が光明皇后をイメージして刻んだと伝えられる。よく手入れの 行き届いた庭園の一角に子安観音が立っており、ここも安産の守り神として広く親しまれている。第六十三番『密教山吉祥寺(みっきょうざんきちじょうじ)』 は住宅街の中にあり、お四国で唯一毘沙門天を本尊としている札所である。境内には「成就石」や「マリア観音像」もあり、本堂も大師堂も素朴で親しみを覚え る。明治以前は石鎚山の別当寺だった第六十四番『石鉄山前神寺(いしづちさんまえかみじ)』は役行者小角が開基したと伝えられる。御本尊は阿弥陀如来で、 老木に囲まれた境内はあくまで静かである。皇室との縁も深いこの札所には沢山の古い灯籠が何基も立ち並んでいる。
いよいよお四国霊場の難所の一つである第六十番『石鉄山横峰寺』である。横峰寺は西日本最高峰石鎚山(1983m)の中腹標高750mにあり、四国霊場三 番目の高さだと言われている。険しい遍路道、杉の老木に覆われた境内、澄み切った空気、張り詰めた緊張感が私を神秘の世界へ引き込む。お線香を焚き、ろう そくを灯し、一心不乱に般若心経を唱えた。
役行者小角が開基し宇宙の守り神大日如来を御本尊に持つ横峰寺は、まさしく修行の霊場にふさわしい名刹である。

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  70. ~私の生き方・考え方~ 『仕事の成果=能力×意欲×システム』

もう二十年以上前になると思うが、ある研修会のとき講師から教わった一説である。それ以来私は自分自身の言葉として随分活用させてもらっている。私がこの 30年余り企業経営に携わってきた中で、様々な経験や得た知識から纏めたものに、企業経営に関する基本的なものの考え方として「十八カ条の憲法」と称する ものがあるが、その一項目にも加えさせてもらっている。
その配分は能力が40%、意欲が40%、システムが20%だというのである。頭でっかちのエリートはとかくシステムに目を執られがちになりその構築ばかり にはやるが、たかだか20%で能力や意欲のせいぜい半分であり、しかも厄介なことに意欲はある日突然『ゼロ』になるのである。この公式の最大のポイントは 決して『足し算』ではなく『掛け算』なのである。而して、意欲がゼロになれば当然仕事の成果はゼロになる。
こう考えれば思い当たる節はある。例えば、最愛の恋人との別離、子供の病、或いは自分の体調不良、母親の死、クライアントとのトラブル、上司または部下と の不調等々、モティベーション即ち意欲が限りなくゼロになる要素はその辺いくらでもある。
我々企業経営に携わっている者の責任は重くて強い。意欲を上げる努力は勿論であるが、少なくとも下げる言動は慎むべきである。
 

●PHP研究所『2007年トップが綴る仕事の指針・心の座標軸』掲載文

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  69. お遍路日記ⅩⅩⅠ

2000年4月のお遍路の旅は結局五十三番札所で、精も根も尽き果て終わったのであるが、そのとき私はどうしても20世紀中に成就したいという願いが強く あり、密かに11月頃を予定した。前回の教訓を生かし、今回は電車とバスとタクシーを移動手段に選んだ。その甲斐あって、体力的な面においては何一つ負担 に思うことなく全行程を終えることが出来たのである。
第五十四番『近見山延命寺(ちかみざんえんめいじ)』は静かな山すそにあり、行基が不動明王を刻み本尊とし開祖したと伝えられる。久しぶりに唱える般若心 経と光明真言が静かな境内に心地よく響き渡る。「さあまた始まる」という身の引き締まる思いを改めて感じた。
街中にある第五十五番『別宮山南光坊(べっくさんなんこうぼう)』を過ぎ第五十六番札所『金輪山泰山寺(きんりんざんたいさんじ)』までは数分の距離であ る。泰山寺は本堂も太師堂もこぢんまりとしており、本尊は地蔵菩薩で開祖は弘法大師である。毎年地元の川が梅雨時期に氾濫して困り果てていたのを弘法大師 が指導し、堤防を築かせ氾濫を収めたそうであるが、それを記念して植えられた松の木が『不忘松』としてあったが近年枯渇したそうである。もったいないと思 うのは私だけであろうか。
第五十七番『府頭山栄福寺(ふとうざんえいふくじ)』は山の中腹にあり、海陸安全の祈願所としても信仰を集めている。本堂横の回廊には木製の車や松葉杖が 奉納されており、巡礼者の一人がこの札所まで来たところ、突然歩けるようになったというエピソードから、その霊験に感謝し納めたものらしい。また境内の片 隅には上品な顔立ちの可愛い地蔵尊が立っている。第五十八番『作礼山仙遊寺(されいざんせんゆうじ)』はロマンの薫り高い伝説のお寺である。天智天皇の勅 願により開祖され、御本尊は天智天皇の守護仏千手観音である。山の頂にある仙遊寺は眺望も素晴らしく、まるで空と海が同居しているようで、呼んで字の如し 仙人が時々遊びに降りてきそうである。
〈焼山寺登れば桜満開なり〉〈花を踏みお山に響く鈴の音〉これは4月にお遍路に出た最初の日に十二番札所焼山寺で詠んだ拙句である。今は11月。紅葉の 中、再びお遍路の旅に出発させていただいた。八十八番『大窪寺(おおくぼじ)』をめざして・・・

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  68. 新しい友人

歴史上の人物で誰が好き?と問われたら、即座に『織田信長』と『坂本龍馬』と答えていた。しかし、ここに来て是非それに加えて欲しい人物が一人私の前に登場した。塩野七生さんに紹介され、最近知り合った『ユリウス・カエサル』である。
この三人は生きた時代は全く違うが共通する部分が数多くある。先ず彼らのキャパシティを計る事は出来ない。天才革命児である。パラダイムチェンジの名人で あった。先見性に優れ、しかも女性によくもてた。しかし、悲しいことに三人とも暗殺されるのである。そして、歴史に"もし"はないのであるが、全ての人物 に"もし"を言わせてしまう人物なのである。
カエサルは数々の革命をしかも短期間に行なっているが、中でも暦の改定は有名である。勿論天文学から作成したのであるが、当時(紀元前50年頃)に、1年 を365日と6時間と設定し作られた暦は、その後1600年以上もの長きに渡って西洋では使用されるのである。また様々な名言も残しているのでいくつか列 挙してみよう。
"賽は投げられた"
"来た、見た、勝った"
"ブルータス、お前もか"
"特に自らの能力に自信を持つのに慣れてきた人々の自己改革ほど難しい事はない"
"人間ならば誰にでも全てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない"
等である。特に最後の言葉などは深すぎて「うーん」と唸ってしまうだけである。
私は50歳を越す年齢になってそれまでとは違う考えを持つようになってきた。例えば、他人を教育することなど出来ない、と思うようになったし、人間の性格 は変えられない事に気が付き始めた。教育は出来ないが訓練を繰り返し行い、システムを創り上げる事で人間の行動を変えることが出来ることが分かりかけてき た。行動を変えることにより自ずと結果に変化が生じてくるのである。また人間は"自分が見たいと欲することしか見ない"のであるから、見たいと欲するもの をよりビジュアルにすることが必要になってくる。
"我々の進むべき道はない。進んだ後に道が出来るのである"『ユリウス・カエサル』

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  67. 近況報告

私が八幡建設の社長を引き受けて早3年が経過しました。平成15年の6月13日。その日は丁度パナホーム兵庫で月1回のグループの役員会が開催された日でした。会議が終わった後、私の部屋に私と妹婿(当時八幡建設の社長)を父が呼び入れて、
「今月末をもって八幡建設の経営権を香山家に返すこと。そして廣紀、お前が代わって社長をせよ。何か異存はあるか、あるなら聞く」と言い、私たちが無言でいることを確認するや、
「そういうこと」と短く噛み締めるように言い残し、私の部屋から出て行きました。
私は社長は兼任できないし、又すべきではないと思っています。何故なら、その会社のことを最も熟知しており、一番働くのが社長だと思っているからです。す べての責任と権限を持ち、一時たりとも気を緩めることが出来ないのが社長の宿命なのです。そう考えると兼務できるほど生易しいものではなく、ましてや混迷 している昨今の経済界において、その職務を全うするのは相当優秀な人でも至難の業であり、ましてや凡人(謙遜ではなく本当に私ほど凡人はいないと思ってい る)の私にとって、自身のキャパシティを遥かに超えたものになっています。
今私は二つの会社の社長と六つの企業の会長をさせて戴いております。(会長の兼務はできます。会長は、企業としての社会的責任はありますが、経営責任とい う意味においては社長ですから)二つとは、勿論八幡建設とパナホーム兵庫ですが、一日も早くどちらかの社長を譲りたいと思っています。六つのうち、リ フォーム兵庫とニューマテリアル兵庫(旧八幡住宅産業)は本年4月に共同で新社屋を建設し、私の手元からほぼ巣立っていきました。残りの四つの企業も一日 も早く自立し、社会から認知される企業になってくれることを望んでいます。社長はできるだけ多いほうがいいと思っています。戦略的に言えば、分社戦略を目 指しています。
グループ全体の売上は、170~180億位で、利益は2億5千万~3億位です。それを3年後に、売上300億、利益15億という目標を持って進んでいま す。勿論基本共通スローガンとして、お客様視点でのお客様満足度100%と、従業員満足を掲げています。一見高そうな目標ですが、ここ数年は数字に拘らず 企業内部の醸成に努めて参りましたので、私はそれ程難しいとは思っていません。
また時々はご報告いたします。どうか温かい目でご声援をお願いいたします。
 

香山 廣紀

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  66. THE家

3年前に八幡建設の社長に就任して、最初に取り組んだことは社内の意識改革だった。活性化委員会を新たに設置し、その中に『合理化チーム』『ESチーム』『戦略チーム』という3つの分科会を設けた。
次に最もやりたかったオリジナル商品の開発に取り組んだ。特に住宅部門においては急務だった。それまでにもそれらしきもの、たとえば『響』とか『彩』とか 『自然素材住宅』とかあるにはあったが、どれをとっても全て中途半端で、"八幡のオリジナル住宅"というには程遠いものばかりだった。それも無理からぬこ とで、時間もコストもかけないでいいものが出来る道理はなかった。
ネットワーク企業からのメンバーはすぐ選べたが、どうしても外部のブレーンが必要だった。一人は広報担当だが、この人物は私のすぐ身近にいた。以前は或る 大手の広告代理店に勤務していたのだが、播磨プレハブ住宅推進協会を通じてご縁ができ、3年間パナホーム兵庫の広報担当顧問の後、今も引き続き相談に乗っ て貰っているK氏にお願いをした。
今一人は大学の研究者が最適だと考えていた。いろいろと伝を辿った結果、兵庫県立大学の「志賀教授」にお願いをしたところ、快く引き受けて頂いた。教授は 『町家再生塾』というNPO法人の塾長もされておられ、今になって思うことだが、これ以上の最適の人物は見当たらなかった。おそらく先生との巡り会いがな かったなら、こんなに早く、これほどぴったりな『THE家』は完成していなかったと思われる。
ともあれ『THE家』プロジェクトは2004年9月24日に第1回の会合を開くことが出来たのである。「すまい」とは何かから始まり、先生から「ヴィトル ヴィウス」の建築の三要素についての講義を聴いたり、時には現場に出たり、KJ法的手法を駆使しながら、徐々にテーマを絞り込んでいった。
約半年が経過した頃やっとターゲットとコンセプトが明確になった。ターゲットは『団塊の世代』であり、コンセプトは『新しい価値を提案する家』であり、そ のキーワードは『愛着』である。「愛着」といっても二つあり、ひとつは『作る愛着』であり、いま一つは『住む愛着』である。テーマ別に3班に分かれ、何回 も何回も議論を重ねた。『作る愛着』とは、工程の段階でお客様に、何かをしてもらう、例えば「壁を塗ってもらう」「塗装(墨と弁柄を使用することにしてい るのだが)をしていただく」「釘を打ってもらう」「鉋をかけていただく」等々作業に参加してもらうのである。『住む愛着』とは、住めば住むほど味わい深く なる、とか、新築なのに以前から住み続けているような感覚の家、とかである。事実モデルハウスでは『作る愛着』については、壁の一部を私と女子社員で仕上 げた。(といっても遥かに女子社員のほうが上手かったが)『住む愛着』については、杉材を全てにおいて使用することと、墨と弁柄を塗ることで表現できたと 思っている。
また一方では、「値ごろ感」「商品イメージ」「規模」「外観デザイン」「設備」「性能」「可変性」「自然素材」「エネルギー」「機能性」等々に於けるポジ ショ二ングの確認を行い、それぞれについてハード面ソフト面から仕様書を作成していった。それと平行してプランが決まり本設計も出来上がり、2006年1 月に着工し、2006年6月3日に我々の『THE家』はオープンした。広報活動については私の思惑通り、当初からK氏をプロジェクトの参加メンバーに加え ることで何一つ危惧することなくスムーズに進んだ。
オープン2日で210組を超す来展者に恵まれ、2週間以上経過した今でも、来展者は途絶えることなく続いているそうである。今後の営業活動は大変勇気がい るが、能動的な営業活動はしないつもりである。あくまでお客様に合わせた営業活動をしていこうと思っている。
あちらこちらに《THE家》《THE家》《THE家》が立ち並ぶことを夢見ながら・・・・・
 

まさしくプロジェクト"Ⅹ"の世界である。そのメンバー諸君をここで紹介する。
 

  八幡建設株式会社 設計部長
工事部長
リフォーム設計係長
営業係長
上木 美和
秦 重樹
玉野 瑞穂
川西 康裕
 
  株式会社パナホーム兵庫 設計部長
設計課長
営業課長
工事係長
設計課
飯田 明
加藤 千佳
香山 恒紀
新宮 重善
多加 瑞穂
 
  株式会社リフォーム兵庫 営業課長 松本 直史  
  G3 代表 小林 孝直  
  兵庫県立大学 教授 志賀 咲穂  

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  65. お遍路日記ⅩⅩ

結局2000年4月期のお遍路の旅は5日間(4月17日から21日)で終わった。精神的にも肉体的にも極限に近い状態になり、もうこれ以上旅を続けていく 自信がなくなった私は帰路につくことにした。登山家が頂上を直ぐ目の前にしながらも、天候状態や自身の健康が優れない時に、引き返す勇気を持たなければな らない、と言う話を思い出した。
私の人生においてこの5日間は全く空白の時間であった。悠久の時間であったような瞬間の時間であったような、説明のつかない一ページだった。私は研ぎ澄ま された神経の中で、第一番札所竺和山(じくわざん)『霊山寺(りょうぜんじ)』からビデオを回してみた。
私はこの旅でいろんな人と巡り合った。私は誰からも一言も教えて戴かなかったが、全ての人に教えていただいた。矛盾した表現だが事実である。例えば、道行 く人々の微笑み、すれ違う見知らぬ人との挨拶、納経帳に墨書をして戴いて金三百円を納めさせていただく瞬間、金剛杖についている鈴の音の響、鳥の囀り、降 りしきる雨、森羅万象宇宙に存在する生きとし生きる物全てが、我が師と言う思いの連続であった。私は二つのことをはっきり自覚した。
一つは、"何でも全てやってみないと解らない"と言うことである。なぁんだそんなことか、とおっしゃるかも知れないが、そんなことである。ならば是非明日 から『今』と違う何かを新にやってみてください。頭で『解る』と腹で『解る』が分かったのである。二つ目は、"自分は生かされている"を実感したことであ る。自己顕示欲が人一倍強い私は、それを嫌と言う程知らしめられた。
私が実際に巡り合った中で、特に強く印象を受け数々のドラマを想い、人生の縮図を感じた『遍路旅』のセッティングを順に上げると、先ず第一はなんといって も『嫁と姑』の組み合わせ、次は『母と子』『父と息子』『歩き遍路』『男一人』『女一人』『夫婦』『家族』『団体の中の一人』『団体』『友達同士』にな る。
途中多めの休憩を取りながらやっと瀬戸大橋に辿り着いた。これで『お四国』とお別れかと思うと、自然と涙が零れ落ちた。拭うこともなく流れるままにしてお いた涙もいつしか乾き、車は岡山を過ぎ山陽道から兵庫県に差し掛かっていた。竜野インターで降り、我が家へは12時過ぎに到着した。家族の者は、落ち窪ん だ目と伸び放題の髭に少々驚いていたが、無事を喜んでくれた。
残りの『お遍路』の旅は2000年11月と、私は密かに決意をした。

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  64. 初出式

昨年に引き続き、今年もネットワーク企業各社合同で初出式を行いました。数年前までは私の中では全く考えも及ばないことでした。私と八幡建設と云う会社は 多少関連はありましたが、別会社でありライバル企業の一つくらいの感覚でした。それほど規範も違えば企業文化も異質でした。
運命の悪戯と云うか、2003年の7月に私は八幡建設の社長を引き受けることになりました。
八幡建設は私の父と私の妹婿が仲良く機嫌よく普通に経営していってくれればいい、と心底願っていました。異変に気がついたのは1年前の2002年8月頃で した。企業経営における普通という感覚を逸脱する事態や事実が発覚し、当時再三にわたって二人に諌言しましたが聞き入れられませんでした。私は諦めパナ ホーム兵庫を守るためにあらゆる手段を講じ、八幡建設が仮に倒産してもその影響が出来るだけ及ばないような財務戦略を展開しました。しかし、父である会長 が2003年6月に、妹婿に経営の第一線から身を引くことと、私には八幡建設の社長就任の決断を言い渡しました。
正直私にとっていい迷惑でした。パナホーム兵庫の経営だけでも大変難しい局面であるにも関わらず、15年以上もほとんど経営に携わっていないし、規範も文 化も違い、義父子二人がやりたい放題の経営を行ってきた会社を、今さら「お前やれ」と言われても全く自信はありませんでした。
私は集団には『理念』が、人間には『哲学』がなければならないと思っています。『理念』がなければ集団は烏合の衆と化し、『哲学』を持たない人間は彷徨う ことになります。八幡建設の社長に就任と同時に執り行ったのは『理念』創りです。パナホーム兵庫にはありますが、八幡建設には理念らしきものはありません でした。理念創りだけのプロジェクトチームを結成し1年間かけて練り上げました。
「私たちは、私たちの住む地球を愛し"お客様を抱きしめろ!"を合言葉に、地域ナンバーワン企業を目指します」が、新企業理念です。後は魂を入れるだけで す。やっと八幡建設にもかすかではありますが一筋の光が見え始めました。
今、八幡建設、パナホーム兵庫を中心として8つのネットワーク企業があり、その資本金を合わせますと、3億6,445万になり、従業員は320人、年商は 170億、利益は3億です。これを3年後には売上300億、利益15億にしようと云うプロジェクトが各社を越えて結成され1年が経過しました。多少会社間 でばらつきはありますが、確実に前進しております。一番感じるのは私が予想もしなかった相乗効果が生じ、それぞれの企業が明るく生き生きして参りました。 それは大変嬉しいことです。今後とも皆様方の末永いご支援を心よりお願い申し上げます。

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  63. お遍路日記ⅩⅨ

第五十三番札所『須賀山円明寺(すがさんえんみょうじ)』までは10分足らずで着いた。円明寺は聖武天皇の勅願により行基が開基したと伝えられている。本 尊は行基自身が刻んだ阿弥陀如来である。また円明寺には四国最古の銅版の納経札があり、大師堂の左横にはマリア像がひっそりと眠っており、キリシタン禁制 の江戸時代に隠れキリシタンの信仰を黙認していたようである。真言密教の広さと深さを感じる光景である。
雨は止むことなく降り続いている。今日は少し贅沢をして"カドヤ別荘"と云う温泉旅館を予約しておいた。身体の疲れを取り精神的にもリラックスしないと、 とてもこの緊張感のままでは最後まで耐えられないと思ったからである。
旅館に着くとすぐ入浴をした。泊り客もあまりいないせいか、広い大浴場はがらんとしていた。手足を大きく伸ばし、パンパンに張った太腿の筋肉を揉みほぐし た。風呂から上がるとしばらくして食事が出された。その料理の品々は全く覚えていない。視覚的には美味しそうであったが、食欲がなくほとんど手をつけるこ とが出来なかった。フロントに電話してマッサージをお願いすることにした。私自身はあまりマッサージは好きではないのだが、この体調を何とかしないと到底 明日は体力がもたないと思ったからである。
マッサージ師は「肉体的にもひどい状態だが内臓も相当弱っている。このマッサージの後温泉で40分位半身浴をすればかなり回復するだろう」とアドバイスを してくれた。遍路旅の最初の日、私の隣で歩き遍路のおじさん達が「歩く度に内臓にずしずし響いて吐き気がする、食欲もなくて困る」と言っていたことを思い 出した。
痛いだけのマッサージも終わり、彼の指示に従い再び大浴場へ行き半身浴をした。10分もすると全身から汗が、それも粘っこい汗が噴き出してきた。とても 40分も入っていることは出来ず上がった。恒例の夜の宿題である明日の分だけ納札に自分の住所と名前を書いた。
寝ようと思い布団の中に入ったが、全身の血がカッカカッカとしてとても寝付ける状態ではなかった。瞼と肉体と脳の3つがそれぞれバラバラに作動し、一段と 神経だけが冴えてくる。人間極限状態まで疲れると眠れない、眠るのにも体力が要る、ことを身をもって実感した。
結局私は朝まで一睡もできなかった。私は迷った。このまま続けるべきか、ここは一旦諦め中止するべきか、私はもっとも信頼すべき人に相談するべく、静かに携帯のボタンを押した・・・・・

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  62. 真打登場

出会いは平成17年5月23日の午後6時30分頃だった。私は少々早めの帰宅をすると家内が『これっ』と言って、手の平にある小さな黒い塊を私に見せた。 かすかに動いている。その小さな黒い塊は、数日前から隣宅に迷い込んでいて、隣人は少々困り果てていた。隣人は我が家の愛猫『カーコ』のことを思い出し、 私の家内に話を持ちかけ見に行くと、まとわりついて離れなかったそうで、そのまま我が家に連れて来たとの事だった。私も手の平に乗せてみると羽のように軽 く、かすかに震えていた。勿論我が家の一員とし、『クロ』と命名した。
次の日、家内はすぐさま以前散々お世話になった隣町の動物病院に連れて行き、色々な検査を受け、点滴もしてもらい、子猫用の食べ物も買い求めた。今夜、こ の子が病院で買い求めた食べ物をほんの少しでも食べたら生命力があり、元気になるかもしれないが、もしそうでなかったら諦めて下さい、と言われたそうだ。 果たして彼女(女の子)は一口二口と食し、小さな声ではあるが『にゃあ』と泣いた。
あれから5ヶ月の月日が経とうとしている。夜は知らないうちに家内のベットで寝る。それも家内の腕を枕にして。時には寝返りも打つそうである。決して私と は寝ようとしない、それがまた腹立たしい。それでも朝は必ず私を起こしに来る。もう少し眠っていたい時もあるが、私は嬉しそうに起き、『カーコ』と同じよ うに新聞を取りに行く。ちょっと違うのは、新聞を持たせることを教えた。『さあ、新聞やで、持って』と言うと、前足で新聞を抱えるようにする。『イリコ』 もねだるようになった。最近家内がホームセンターで買い求めたキャットタワーを私が半日がかりで組み立てたのだが、それも充分に慣れ彼女の棲家の一つに なった。トイレも一回で覚え、私達を驚かせた。
とにかく彼女は『おてんば』である。カーテンはもちろん網戸もボロボロである。この夏はそこから虫が入り、我々を悩ませた。さほど大きくない我が家だが、 2階から1階の玄関まで10秒もかからずに走り回る。また微動だにせず外を見ている時もある。その後姿に哀愁を感じる。生まれて間もない頃から我が家の一 員となったせいもあり、完全に我々の子供だと本人も思っている。『カーコ』は膝の中で眠ることはなかったが、彼女は気持ち良さそうに背中を丸めて眠る。黒 いショートヘアに増々光沢が出てきた。私より長生きするかも知れない。
愛犬は『官兵衛』愛猫は『クロ』。『クロ』だ『官兵衛』、いよいよ真打登場である。
いよ!待ってました!

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  61. お遍路日記ⅩⅧ

一段と激しさを増してきた雨と、精神的にも肉体的にもピークに達している疲れのせいで、イライラが一層募り、意識は朦朧としてきた。五十番札所から、第五 十一番札所『熊野山石手寺(くまのざんいしてじ)』までは、わずか十分足らずの道程のはずなのに、なかなか辿り着かない。もう三十分以上も車で右往左往し ている。カーナビではとっくに到着したことになっている。私は思い余ってパーキングに車を入庫し、係員に道順を尋ねた。
彼は不思議そうな表情で、「この前です」と指で示した。
降りしきる雨の中で、右手に傘、左手には金剛杖、肩からは遍路グッズ(ロウソク、お線香、納め札、納経帳、御経帳、経本)でいっぱいのずだ袋を掛け、両脇 に立ち並ぶ土産物店を見ながらゆっくりと進んでいった。阿・吽の金剛力士像に見守られた仁王門は大きく重厚である。仁王門をくぐると、見事な三重塔が建っ ており、その横に鐘楼堂がある。いずれも国の重要文化財であり、麓鐘は国宝である。石手寺の寺名の由来については面白いエピソードがある。遍路の元祖と言 われている衛門三郎が、21回目の遍路の途中息を引き取る寸前にようやく弘法大師に巡り合うことができた。その最後の望みに応えて小石に『衛門三郎再来』 と記して左手に握らせた。間もなく伊予の領主に左手の開かない子供が誕生し、安養寺の住職が祈願で指を開いてみると、その中から『衛門三郎再来』と書かれ た小石が表れた。そこで安養寺を石手寺と名を改めたそうである。
第五十二番札所『瀧雲山大山寺(りゅううんざんたいさんじ)』までは約十キロの道程である。今度は、二十分くらいでスムーズについた。行基が刻んだ御本尊 十一面観音を中心に、左右に三体ずつ計七体の十一面観音像が安置されており、いずれも秘仏で、一般には公開されていない。雨の中、長く急な石段を上ってい く。息も絶え絶えになり、足を滑らしそうになる。登りきると、荘厳な本堂が正面に見えた。その瞬間疲れがどこかに飛んでいく。
私は雨でにじんだ納札を箱に納め、一心不乱に般若心経を唱えた。参拝者はほとんどいない。私の読経の声だけが雨に消されながらも境内に響き渡っていく・・・・・・

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  60. お遍路日記ⅩⅦ

第四十八番札所『清滝山西林寺(せいりゅうざんさいりんじ)』までは4キロそこそこである。西林寺は田園風景の中にあり、その西南に杖の淵公園がある。公 園内には、名水百選にも選ばれている湧水がこんこんと湧き出ている。その由来は、当時農民達が日照り続きで困っていると丁度弘法大師が通り掛り、手にして いた錫杖でついたところ、あちらこちらから清水が湧き出て、以来水は枯れたことがないそうである。また西林寺の御本尊である『十一面観音』は秘仏で、後ろ 向きに立っているとのことで、裏へまわって手を合わせる。
本堂と大師堂で読経を終えた私は、ふと境内に目をやると、そこには猫が数匹日向ぼっこをするようにうずくまっていた。その内の一匹と目が合い近付いて行く と、我が家の愛猫「カーコ」だった。そこに居るはずはないのだが、間違いなく「カーコ」だった。私は手を差し伸べると、例のうざったいという仕草を見せな がら、のそりのそりと床下へ潜り込んでいった。(平成15年4月に亡くなっている)私は軽いホームシックを覚え、何故かしらえも言われぬ脱力感に襲われて いくのを全身で感じていた。
第四十九番『西林山浄土寺(さいりんざんじょうどじ)』までは10分足らずで着いた。たくさんの草履が奉納されているどっしりとした仁王門を潜り抜ける と、正面に本堂が見える。本堂は重要文化財に指定されており、その背後の竹林との対比は印象的である。開祖は恵明上人だが、御本尊である釈迦如来に深く関 わる空也上人の伝説が多く残っている札所でもある。空也上人は踊念仏の始祖であり、南無阿弥陀仏を唱え、念仏を広めたことにより、阿弥陀聖とも市聖とも呼 ばれている。空也上人がこの地を去る時、民の願いで自像を刻んだ。この像は現存していて重要文化財になっている。上人像の口から針金が出ており、その上に 小さな仏像が六体立っていて、口から出る六文字の念仏が仏の姿になっているという意味らしく、飄々とした老人像である。
第五十番『東山繁多寺(ひがしやまはんたじ)』の開祖は行基で、本尊は薬師如来であるが、四十九番札所同様に、全国に念仏を広めた一遍上人縁の地としても 有名である。一遍上人は空也上人を師と仰ぎ、また捨聖とも呼ばれ、この世の余分な物を捨て去ることにより、人間は救われると唱えた。この現代において何か しら清々しさを感じる教えである。
雨はだんだん激しさを増してきた。車も渋滞し、イライラが募る。今夜の宿泊地は少し贅沢に温泉地を予約している。渋滞の合間にルームミラーで顔を見てみる と、無精ヒゲも生え、中には白い物も混じり、他人の顔のように思える。

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  59. お遍路日記XVI

第四十四番札所『菅生山大宝寺(すごうさんだいほうじ)』は杉の老木の中にある。仁王門には巨大な草履が奉納されており、百年に一度取り替えられるそう だ。ご本尊は十一面観音で、明神(みょうじん)右京(うきょう)・隼人(はやと)という狩人が安置したと云われている。石段を上り詰めると本堂、大師堂、 護摩堂が整然と並んでおり、保元年間には後白河法皇が病気平癒の祈願をされたところ全快したと伝えられている。
第四十五番札所『海岸山岩屋寺(かいがんざんいわやじ)』までは10キロそこそこである。駐車場に車を止めると、それまで降っていた雨がやみ、薄日さえ射 してきた。杉の巨木に囲まれた坂道や石段を20分ばかり登ると、ようやく本堂が見えてきた。岩屋寺は建物としては本堂より大師堂の方が大きいが、それには 由来がある。伝説によると、昔この山中には法華仙人という女の仙人が住んでおり、弘法大師がこの山を訪ねたところ「あなたを待つこと久しかった」と言い、 大師にこの一山を献上し大往生を遂げた。大師はそこで木と石の不動明王を刻み、木像を本堂におさめ、石像を山の中腹の洞穴に安置し山全体を信仰の場とし、 またご本堂でもあるのだ。寺の左右の礫岩峰は、胎蔵界峰、金剛界峰と名づけられ、この山全てがご本尊であり、まさしく真言密教の世界である。この地で大師 は「山高き谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとえむ」と、詠んでいる。
第四十六番『医王山浄瑠璃時(いおうざんじょうるりじ)』は、こじんまりとした閑静な札所である。本尊は薬師如来で行基が開基したと伝えられる。境内には 仏足石や説法石があり弁財天も祀られている。七福神の弁天様は何か一つだけ願い事を叶えてくれるとのことで、凡人には一つだけ、と言われれば迷ってしま う。
第四十七番『熊野山八坂寺(くまのざんやさかじ)』まではあっという間である。今は建物は鉄筋コンクリート造りになっているが、その歴史は古い。文武天皇 の勅願寺であり、701年に創建されたと伝えられ、その当時は末寺四十八ヶ寺を有していたが、相次ぐ戦火のため現在に至っている。恵心僧都(えしんそう ず)作とされるご本尊阿弥陀如来は50年に一度開帳される。幾多の苦難の中においてもなお、法灯は今も守り続けられている。
雨は多少小降りになった。空腹ではあるが、食欲があまりない。道端の食堂でうどんを食べ、その日の宿泊を予約した。松山市内に入ると車の渋滞は一層ひどく なり、イライラがつのる。もう何かに取り憑かれたように札所を駆け巡っているような自分が見える・・・・・・

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  58. 官兵衛登場

この1年ほどの間に悲しい別れが三つありました。
一つは昨年5月に私の母が76歳で亡くなりました。直接の原因は肺炎ですが、亡くなる半年ほど前に階段から落ち、ほとんど寝たきり状態になり、精神的に落 ち込み、又、その上に自分の身の回りで起きた度重なる出来事に心を痛め、帰らぬ人となりました。母との思い出といえば私の中にあるのは楽しい思い出よりつ らい暗いことの方が多くあります。私が6歳の時、小児結核にかかったのですが、母も同じように結核になり、2人して地元の病院で8ヶ月もの長きにわたり闘 病生活を送りました。それから私が高校生の時、母は目を患い(後に分かったのですがベーゼット病だった)一時は神戸の病院で手術を受け、かなりのところま で回復していたのですが、晩年はほとんど視力はなく、それが原因で階段からも落下したのです。"視力がなかった"ことにより、盲導犬協会に幾ばくかの浄財 をさせて頂くというご縁が出来たことは、母の意志の表れと思って大変嬉しく思っております。でも、せめてもう10年は生きていて欲しかった、そして私の人 生の序章が完結へと進んでいく過程を見守って欲しかったと思います。振り返っても母の人生の大半は苦労の連続でした。今は安らかにと願うばかりです。
二つ目は、愛猫"カーコ"との別れです。それについては『手紙』で記しましたので、改めて述べませんが、未だ私の心の中で引きずったままです。
三つ目の別れは17年半私達の子供として、雨の日も風の日も、暑い日も雪の寒い日も一緒に暮らしてきた、愛犬"サンタ"の死です。これは、私よりも家内の 方がショックが大きく、立ち直るのに時間がかかりました。彼女は気分転換に娘の処(ウィーンで未だ学生)へ行ったりして、ようやく回復の兆しが見えました ので、サンタの死から49日が過ぎたのを機に、同種の柴犬を神戸の玉津で買い求めました。それが"官兵衛"です。官兵衛についてはいずれまた詳しく紹介い たしますが、私達の元に来てからやがて1年が過ぎようとしています。
現在私は56歳です。今後の20年が私の人生の仕上げです。悲しい別れもありましたが、素晴らしい出会いもあります。この宇宙に存在する森羅万象に生かさ れていることに改めて感謝し、誰かのために轍を残したいと願っている今日この頃です。

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  57. ある日の会話から

私は時々友人から、
「お前は一体何を基準に考えて経営をしているのか?」と尋ねられる。
その時は決まって、
「合うか、合わないか、を基準にしている」と答える事にしている。
すると大半の者は『いいかげんやなぁ』と言うが、その内の何人かは『うん~、なるほど』と言ってくれる。
私のところへ色んな人が勉強と称して来られる。それは私が経営者として優れているのではなく、変わっていてユニークだからである。当の本人は全く認識して いなくてごく普通だと思っているのだが、他から見ればどうも変わり者に見えるらしい。住宅メーカーの販社でありながら総合展示場から完全撤退したり、1階 にギャラリーを設置し子供の絵画展をしたり、また、自社の駐車場で月1回フリーマーケットを行ったり、その他枚挙にいとまはないが、他人から見れば今の時 期、狂人にしか映らないと思う。
今、私はほとんど毎朝、約1時間かけてお写経をしている。とりあえずの目標は1千枚である。なぜ1千枚かというと、仏教の世界ではどうも千という数字は一 つの修行の目安になっているみたいだからそう決めたのである。西暦2千年にお遍路の旅に出て満願成就した。その余韻を感じながら2年前から始めたのであ る。般若心経の心は云うまでもなく、"かたよらない心""とらわれない心""こだわらない心"である。そしてあるがままに受け入れるところから全てが始ま るのである。
A社では成功しているシステムや戦略が、B社で必ずしも上手くいくとは限らない。それぞれにおいて、歴史も違うし、理念も哲学も違う。また従業員の質も量 も違うし時代も違うし、そもそも経営者トップが違う。そのような状態の中で全てに通用するオールマイティの秘策など最初から存在しないのである。まず、全 てをあるがままを受け入れ、そして何が合うか合わないかを取捨選択することが最も大切であると、私は信じて実行している。

(PHP研究所『2005年トップが綴る 仕事の指針 心の座標軸』掲載文より)

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  56. お遍路日記XV

本日の宿泊は「冨士廼旅館」である。冨士廼旅館は街中にあり、これまでの宿泊地と違い廻りは大そう賑やかである。この近くには宿坊もなく、安い旅館も予約 でいっぱいだったので、仕方なくそこにしたが、料理は今までになく良かった。中でも、炭火の入った七輪での紙鍋は最高だった。自家製の味噌で味付けがして あり鴨とネギに鱶の肉を混ぜ、季節の野菜もたっぷり入っており、今思い出しても唾が出るくらいである。ただ残念だったのは体調を崩しかけていた私は、食欲 があまりなく残してしまったのである。
昼間、眼鏡のレンズを落としてしまったので、それを買い求める為と少々の気分転換も含めて、食事を済ませてから街に出てみることにした。眼鏡を買ってから お酒が飲める人ならどこかスナックでもというところだが、私はそうはいかない。しばらく散歩をして近くの喫茶店へ入ってコーヒーを注文した。奥の方には一 組のカップルがいたが、私が入ってきたのにも気付かない様子だった。旅館へ帰ってから何かしら還俗したような気分になり、出発から今日までのこと、自分の こと、家族のこと、会社のこと、私と関わってきた人のこと、様々のことが頭の中を駆け巡り、瞼は重く眠いのだが、神経は益々冴えなかなか寝付かれなかっ た。
朝方うとうとしていると、宿の女将さんの「食事の準備できました」という声に目がさめ、急いで着替え、朝食もそこそこに車のエンジンキーを回した。本日の 最初の札所、第四十三番『源光山明石寺(げんこうざんめいせきじ)』にカーナビをセットし、一つ大きく背伸びをし、両頬を両手でかなり激しく叩き、気合を 入れてスタートした。
源光山明石寺は山地にあり、その御本尊は千手観音で、正澄上人が開基したと伝えられている。現在は「めいせきじ」と呼ばれているが、本来の名は「あげいし じ」で、土地の人たちからは「あげいしさん」とか「あげしさん」として親しまれている。千五百年の間には、幾多の興廃が繰り広げられ、明治の時代に建立さ れた現在の本堂は、古色蒼然としており、深い歴史を感じる。
いくらか元気を取り戻した私は、この菩提の道場"愛媛"を心から満喫してみようという気持ちになっていた。少々やせこけた顎や頬のあたりを撫ぜてみると、 遍路旅に出てから一度も剃っていないヒゲの感触が心地よかった。

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  55. お遍路日記XIV

"修業の道場"最後の札所、第三十九番『赤亀山延光寺(しゃっきざんえんこうじ)』は、山間の閑静なお寺である。読んで字の如く赤亀山延光寺には、赤亀の 石像が安置されており、その背に小型の銅鐘が乗っている。聖武天皇の勅命により、行基が薬師如来を刻んで本尊とした。境内には「目洗い井戸」があり、その 冷たい湧水は、人々の心を癒している。
"発心の道場"(徳島)から"修業の道場"(高知)を経て、いよいよ"菩薩の道場"愛媛県である。その最初の寺は、第四十番札所『平城山観自在寺(へい じょうざんかんじざいじ)』で、ご本尊は弘法大師が刻んだ薬師如来である。本堂は鉄筋コンクリートだが入母屋造りで中々趣きがある。空海は一木で本尊を刻 み、脇仏として阿弥陀如来と十一面観音を彫り、その残った木で「南無阿弥陀仏」の名号で宝印を彫り、諸病の病根を除く祈願をしたと伝えられており、今も多 くの人々の信仰を集めている。
私は山門をくぐり、帽子をとり一礼して去ろうとすると、「もし」と言って私を呼び止める声がした。振り向くと初老の男性が立っており、「あなたは今、お参 りをすませてから鐘をついたでしょう、何てことをするのですか、鐘はお参りをする前につくものなのです。何故かというと、そもそもお遍路の目的の一つは先 祖供養をする為であり、鐘をつくとご先祖が本堂に降りてくるのです。そして、あなたがお経を唱えて『頑張って生きていますのでご安心下さい、これからも見 守ってください』と報告しお願いをするのです。そうすることによってご先祖も安心され帰って行かれるのです。帰る時に鐘をつくと、ご先祖は降りたままでど こにも行けず彷徨ってしまう事になるのです」と教えられた。私はただ自分の無知を恥じるのみであった。もう一度山門をくぐり本堂と大師堂で般若心経を唱 え、一心に先祖に詫びた。
第四十一番札所『稲荷山龍光寺(いなりざんりゅうこうじ)』は「三国のお稲荷山」として親しまれており、今でも商売繁盛、出世、開運祈願に訪れる人も多 い。明治の廃仏毀釈で本堂は稲荷社となり、新たに十一面観音をご本尊とした本堂が建てられた。
次の四十二番札所『一果山仏木寺(いっかざんぶつもくじ)』までは五分足らずの道程である。大日如来をご本尊にした仏木寺には、三百年の間、風雪に耐えた 古い茅葺きの鐘桜堂がある。教えられた通り、山門をくぐってすぐ鐘をつき、本堂、大師堂へお参りをし、納経帳に墨書をしてもらい朱印を押してもらった。
車に帰ってメーターを見ると、自宅を出発してからちょうど千キロをさしていた。思わず小さくガッツポーズをした。空を見上げると、夕焼けが私の心を包んでくれた。

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  54. お遍路日記XIII

昨夜はあまりよく眠れなかった。食欲もなかったが、翌日のことを考え体力をつけておかねばという思いで食べた。出された料理もよく覚えておらず味覚もなかった。それでも朝食は生卵で流すように胃袋へおさめた。
納経所が開くのは午前7時だ。昨夜からの雨もすっかり上がり、三十六番札所『独鈷山青龍寺(とっこうざんしょうりゅうじ)』の仁王門をくぐると、本堂へと 続く百段以上はあろうかと思われる石段は、朝もやの中にけむっていた。急に元気になり、眠気も去り、おそらく本日最初の巡礼者であろう私は、誰もいない石 段を金剛杖の快い音とともに力強く上っていった。
青龍寺の御本尊は波切不動明王であり、開祖は弘法大師空海である。納札を納め、私は腹の底から般若心経を唱えた。私はたった一人境内にただずみ、えも言われぬ爽快感に浸った。
長い石段を下りる途中、上ってくる巡礼者と出会うと、どちらからともなく『おはようございます』という挨拶を交わす。次の札所三十七番『藤井山岩本寺(ふ じいさんいわもとじ)』までは55キロ、約1時間30分の道程である。横浪黒潮ラインを走るのであるが、美しい眺望を楽しむ余裕はなかった。山門を入った 境内にはいちょうの老樹が薄緑の葉を生い茂らせ、私を迎えてくれた。本道の天井絵は面白く、仏様や花だけでなく、マリリンモンローもあり、575枚あるそ うである。開祖は行基だが、岩本寺の御本尊は五体(不動明王、観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩)もあり、当り前の事だが、それぞれに真言があ る。
岩本寺からお四国霊場のうち最南端に位置する三十八番札所『蹉陀山金剛福寺(さださんこんごうふくじ)』までは、八十八ヶ所のうち最も長い道程で、90キ ロ、車で約2時間30分の遍路道中である。足摺岬の先端にある金剛福寺は太平洋からの激しい波と風を受けながらも、遍路をずっと迎えて来た。道路の西側に は土産品の店やホテルが立ち並んでいるが、ひとたび境内に足を入れると別世界であり、静寂の中に本堂、大師堂、多宝塔、愛染堂などなどが存在する。御本尊 は『三面千手観音』で弘法大師空海が開祖したと伝えられ、平安時代には和泉式部も訪れた記録も残っている。
金剛福寺を心行くまで堪能した私は、ふもとのお店でお蕎麦をいただいた。修行の道場である高知県も残すところあと1ヶ札になったと思いながら、この南の端 まで一人でよく来たものだと、少々自分を褒めてやりたい気持ちにもなっていた。
同行二人の旅はまだまだ続く・・・・・・

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  53. 新しい期にやるべきこと

私は一貫して後戻りのしない経営を目指していた。その分多少時間がかかったり、労力を費やしたり、資金が要っても仕方がないと思っていた。そして、5~6 年前にほぼ完成したと、自分自身感じていた。『50歳までに』という私の目標も達成した、と思った。40代は本当に真面目に経営に取り組んだと密かに自負 していた。
それが2年前にもろくも崩れ去ったことを、自分の中で認めざるを得なかった時、私は自信を失い、そのショックから立ち直るのに相当の時間を要した。
今しみじみ思うと、企業経営に完成などないのであり、また最終ゴールもなく、あるとすれば単なる通過点であり、それを弱い人間は無理矢理にゴールにしてし まうのである。残念で悔しいが、人間は日々反省の連続なのである。そして、そこから何を学び、どう経営に生かし、どのように行動レベルに落とし込むかであ る。
パナホーム兵庫の第26期のやるべきことは二つある。一つは前期からも言っているとおり『お客様視点に立ったCS経営』であり、戦略的には『あめにてぃ戦 略によりオンリーワン企業を目指す』である。今期はそれにプラス"生産性アップ"である。
前期の後半に提唱した『Z作戦』がいくつかの部署が真剣に取り組んでくれ、その成果が上がったことを踏まえて、今期は全てにおいて"生産性の向上"を目指していく。
その大きな目安として、事業部ごとの月次決算を行う。戸建事業部、資産活用事業部(旧サンライフ事業部)、特建事業部、不動産総合センター、本社スタッフ 部門で、それぞれに決算を行い、その収支を明確にしていく。とりあえず9月末までを試用期間としその時点で多少修正を加え、下期には本格稼動させ評価も報 奨もCSに継ぐ重要度で生産性アップを考慮していく所存である。
今からの5年を思うとき、まだまだデフレ経済は続きそうであり、混沌とした世情も落ち着きそうもない。しかし、我々の企業は健全な形で生き残っていかねば ならない。そのためには、『お客様満足』と『一人あたりの生産性向上』は欠くことのできない最重要課題である。その二つをやりきる企業だけが次世代に生き 残れるのである。

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  52. 追伸

あなたが亡くなってはや半年以上が経過しました。少しはその寂しさから解放されるかと思っていましたが、私の心に空いた穴はそのままで、一向に埋まりそう もありません。あなたはもう知っていて、多分そちらで一緒に遊んでいると思うが、(こちらに居る時も良くじゃれあった本当に他の人が不思議がるくらい仲良 しでしたからね)17年半も生きた柴犬"サンタ"が、ちょうど1ヵ月後あなたの後を追うように、1月4日に眠るようにお母さんの腕の中で息を引き取ったの ですよ。
サンタもあなたと同様、家族の一員として弔いました。勿論可哀相でしたが、あなたの場合と違って、"本当に天寿を全うした"のですから、涙は出ましたが、 むしろさわやかに送ることが出来ました。サンタは亡くなるその日の朝も、少しですが散歩もしましたし、ご飯もいくらか食べました。私もサンタと同じよう に、例えば朝ゴルフに行き、一ラウンドを終え帰って来て、『今日は少し疲れたから先に眠るわ』と言い自分の寝室に入り、次の日の朝、家族が起きてこないの で見にいってみると息を引き取っていた・・・というような人生が良いと思いました。
1ヶ月の間に、あなたとサンタを失った私たちは、特にお母さんはショックで、あれほど何やかやに精力的だったのに、すっかり落ち込んでしまいました。私た ちは、あなたとサンタの四十九日、合計80日読経をしました。そして今は、月命日が偶然にも同じになった4日にはお経を唱えています。その時あなた方に会 えるのが嬉しくてね。
サンタの四十九日が終わったのを契機に、私たちはサンタと同じ柴犬を飼うようになりました。名前は『官兵衛』といいます。この子が元気でやんちゃ坊主で す。最初のうちはお母さんもほとほと手を焼き、少々ヒステリックになっていましたが、日がたつにつれ近所の人も見間違うほどサンタそっくりになり、だんだ ん賢くなっています。あなたに見せたいです。この夏にあなたの元々の主人である長女がウィーンから帰ってきたらきっとサンタがいると思うでしょうね。
私は一生あの夜のことは忘れません。あなたが亡くなる4日前、その時あなたは1メートル四方も歩くことが出来ない状態だったのにも関わらず、私たちの寝室 のある二階にまで上がってきて、私の部屋に入り、そして家内の布団の上で寝ましたね。最後の力を振り絞り、最後の別れにあなたは来たのですね、


私は、あなたに出会うまで、あなたと暮らすことはないでしょう。
さようなら、でももう一度めぐり会いたい・・・・・・

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  51. 手紙Ⅱ

丁度2年くらい前でしょうか、あなたの異変に気がついたのは。あれほどあった食欲『1日2回、きっちりキャットフードを何度かに分け食べ、夕食時には家内 があなたの為に特別に用意した、例えば秋刀魚や鯵を焼いたもの(決して生物は食べなかった)を家内が「ごちそうさま」と言うまで食べ、そして私が夜の歯ブ ラシをしていると「まぁ~」とまさしく猫なで声ですり寄り、例のもの、つまり"イリコ"をねだり、3匹ほどやると満足そうに2~3回大きく前後に伸びをし て、ソファ代わりになっているマッサージ器の上に軽く飛び乗り体を丸め目を閉じていました』が、突然無くなりましたね。1~2日は様子を見ていましたが、 一向に元の食欲に戻りそうもないので、病院へ家内が連れて行くと、貧血がひどい状態だということが判り、3~4日入院をし、点滴をうってもらうことにな り、その間私たちは寂しい思いをしました。私自身も仕事の合間を抜けて見舞いに行きましたね。それがあなたと病気との最初の出会いでした。
退院してからはすこぶる元気になり、食欲も旺盛で1年くらいは元気で毎日を気ままに過ごしていました。体重も増え周りからはブタ猫などと言われたりして、 あなたは少々機嫌が悪かったかもしれませんね。私たちもすっかり入院したことなど忘れていました。
が、しかし次の異変に気付き、病院へ連れて行くと、肝臓の数値が悪くなっており、さらに追い討ちをかけるかのように、白血病のウィルスも持っていることも 判明しました。実はあの時あなたには言いませんでしたが、医者からはそう永くない生命であると宣言されていたのです。あなたは薬が大嫌いで、本当に可哀相 でしたが、心を鬼にして二人がかりで飲ませました。あなたは鋭い爪で、私の胸と腹を引っかき、特に腹の場合は血が滴り落ち、その傷は今も残っています。今 では私とあなたを結ぶ一つの絆となり、私の宝物です。特にあなたが亡くなる1ヶ月ほど前は、針をはずした注射器で、私達は泣きながら薬や流動食を与えまし た。あなたが亡くなった時、家内は一番にその注射器を処分しました。
2003年12月4日、午前8時。私は会社のエレベーターの中で鳴る携帯電話を取りました。「カーコが、カーコが」泣き叫ぶ家内の声。「すぐ帰る」私はそ の日のスケジュールを全てキャンセルし、とんぼ返りで自宅に戻りました。家内はもう1時間近くあなたを腕の中で抱きしめたまま、泣き続けていました。私達 家族は、あなたを本当の家族のひとりとして弔いました。


私はと言うと、未だに洗面所で歯ブラシをしながら、あなたが足元にまつわりついてくるのを待ち続けているのです。

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  50. 手紙

私はあなたに手紙を書くのは初めてですね。そしてこれが最後の手紙になりました。
私はこれまであなたにどれほど癒され勇気付けられたことでしょう。
あなたとの出会いは、今から7年5ヶ月前でしたね、当時岡山に住んでいた私の娘があなたを連れて帰ってきました。私はそれまであなた方が大嫌いでした。で も三日で好きになり、1週間で夢中になりました。娘があなたを連れて帰るとき、私は娘を脅迫しました。「娘が住んでいるアパートの大家にあなたと娘が一緒 に暮らしている、ルール違反だと」密告してやると。それから間もなく正式にあなたは我家に住むようになり、私達の子供、いえ時にはそれ以上に生活を重ねて きました。
私たちは一歩も外へ出さないようあなたを過保護に育てました。でもあなたはそれに甘えることなく自立して大きくなっていきました。夜中にあなたがいなくな り、半ベソをかきながら私たちは3時間近く探し回りました。疲れ果てて帰ってみると「何かあったの」というような顔をして悠然と椅子の上にいましたね、私 は思わず抱きしめて気がついてみると本当に涙が流れていました。私とはあまり一緒に寝てはくれず妻とはよく寝て、私の嫉妬をかいましたね。それでも気が向 けば私の寝室にも入ってきて、テレビの上に本当に身軽に飛び乗って、独特のしぐさ「前足を舌でなめながら顔を洗う」をしていましたね。あなたが入れるくら いにいつも戸をあけていました。その習慣は今も私たちから消えていません。私の部屋にある高さ2メートル以上もある洋服ダンスに駆け登り、よく私めがけて 飛び降りましたね、私たちがかまい過ぎるとうざったくなったのか、いつの間にかクローゼットの和ダンスの上に隠れ、息を潜めていました。時々休みの日など 朝寝をむさぼっていると、しびれを切らしてかいたずらかは分かりませんが、あのざらついた舌で、私の髪や頬を舐め、起こしに来ました。捕まえようとすると するりと逃げ、あっという間に階段を下っていきました。ある時、2階のベランダへ出るサッシの戸が少し開いていたのか、それを器用にあけ、ベランダの手す りの間から屋根にいたこともありました。高いところが苦手な私ですが、屋根の軒先まで行ってあなたを無事保護し、その時正気に戻り足が震えました。網戸は 体当たりをして外してしまうので、全てガムテープで外からと内からとしっかり貼っていました。もちろん、壁のクロスはキズだらけ、障子も自分の背の届くと ころから下はきっちり穴が開いていました。


つづく

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  49. 今、当社は七合目

2003年は、私の人生にとって忘れられない年になった。天のおぼしめしか、何か所謂サムシンググレートの力が働いたのか定かではないが、運命のいたずらで八幡建設の経営にも携わるようになった。
実際、経営現場へおりてみて大変ではあったが、やるべきことは明解で、ただ私は大手術を行なうだけでよかった。後は自然治癒力を信じてさえいれば良かっ た。意外と早く退院でき、ほとんど傷は癒え、現在は体力の回復を待つだけである。
また、一方では、八幡工業と八幡住宅産業を合併したのもいい選択であったと思う。分社は何社も行なったが、合併は初めてで、それはそれでなかなか勉強に なった。スケールメリットも出来、"住設建材のパートナー"として飛躍してくれると確信している。
リフォーム兵庫は分社第一号として、成功への道をひた走っている。ガーデン兵庫も経営トップの問題は残っているが何とかなりそうである。
問題なのはパナホーム兵庫とカーペンターズ兵庫である。カーペンターズ兵庫は、パナホーム兵庫と一心同体であるから、パナホーム兵庫さえ上手くいけば何の心配もないと思っている。
パナホーム兵庫の基本理念は『心の経営』である。そしてそれは三つの大戦略、すなわち、CS経営(企業の目的は、お客様にお客様の視点で価値満足を与え続 けること)、あめにてぃ戦略(地域密着型営業:展示場は家を建てる人が来るのではない、来てもらった人に家を建ててもらうのである)、ESを根底にした分 社戦略(社員とその家族が幸せになり、満足をしてもらい、少なくとも社員の不満のない企業)で成り立っている。それのどれか一つが欠けても、パナホーム兵 庫の将来はないのである。
今、当社は富士山で例えれば、七合目あたりに差し掛かっている。企業人としてこの世に生を受けた我々は、頂上を目指さなければならない。皆さん、ちょっと 富士山を想像してみてください。大体七合目か八合目あたりにはいつも雲がかかっているでしょう。当社はちょうど今その雲海の中にいる。一見下るほうが楽か もしれない。しかし、頂上を目指し、そこに辿り着けばきっと素晴らしい景色が我々を待っていると思う。もっと楽に、もっと楽しく仕事が出来、きっと充実し た人生だったと喜び合えると信じる。
年頭にあたってこんな事を記してみました。

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  48. お遍路日記XII

三十三番札所『高福山雪蹊寺(こうふくざんせっけいじ)』のご本尊は運慶作と言われている。薬師如来像であり、その真言は、「おん ころころ せんだり  まとうぎ そわか」である。お四国八十八ヶ所の札所の中で、薬師如来をご本尊にした札所が最も多く、二十三寺ある。また雪渓寺には、歌詠み幽霊の伝説も 残っている。
雪渓寺から三十四番『本尾山種間寺(もとおざんたねまじ)』までは、6キロ足らずの道程である。建物は鉄筋コンクリート造りでモダンな感じであるが、その歴史は古く遠く百済の時代まで遡る。
境内の観音堂に『子育て観音』の額がかかり、観音像のまわりには底の抜けた柄杓が数多く奉納されている。観音様の左手の堂にはかわいらしい赤ん坊の像が 立っており、本尊の薬師如来は、安産の薬師として有名で、妊婦は柄杓を持って寺へ詣でる。寺ではその柄杓の底を抜き、3日の間安産の祈祷をしてお札ととも に柄杓を返す。妊婦は底のぬけた柄杓を床の間に飾り、出産後柄杓を寺に納める。その為に底のない柄杓が寺に集まっているのだそうである。
種間寺を出る頃には雨は一段とその激しさを増し、あたりはそれほど遅い時刻(午後4時過ぎ)でもないのに薄暗くなってきた。三十五番札所『医王山清滝寺 (いおうざんきよたきじ)』は山の中腹にあり、流汗坂と呼ばれる参道を上る。参道の両側がみかん畑と竹林から深い木立へと変わっていく。道は狭く険しい坂 道で、雨でスリップし何度か脱輪しそうになる。手のひらは脂汗で車のハンドルもべたついてきた。やっとの思いで駐車場へ着き、急な石段を息を弾ませながら 上っていくと仁王門が現れる。仁王門の天井には竜の絵が描かれており、また石段を上ると薬師如来の立像が本堂前に建っている。台座の中へ入ってみると真っ 暗で一瞬恐怖が私を襲った。後に知ったことだが、これを『戒壇めぐり』と言うらしい。本堂の右奥からは小さい滝が流れ落ちており、口に含むと歯にしみる。 あくまで清らかな岩清水である。
納経を済ますと5時であった。細心の注意を払ってきた坂道を下り、細い直角に曲がっている田んぼ道を通り抜け、昼過ぎに予約をしておいた本日の宿『国民宿 舎土佐』に辿りついた。案内された部屋に入り、腰をおろすと疲れがどっと来て、食事はもちろん、全く何もする気力がなくなってしまった。得体の知れない脱 力感にさいなまれながら、今からの夜をどう過ごすべきか、無事に朝が迎えられるだろうか、自分自身がどうなっていくのだろうか……
自分の中から思考という回路が消えていくのを感じていた。

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  47. お写経II

『お写経』についてもう少しだけ。
2000年にお四国八十八ヶ所お遍路の旅に出て、様々な出来事や予想もしなかった精神的ストレスに驚きを覚えながら、春に53番まで、秋に残り35番を済 ませた私は、少なからず心の空洞を感じ始めていた。己の未熟さを少しでも補う為に、その空洞を埋める為に、とお遍路を終え2年経過した昨年からお写経を始 めた。目標をとりあえず1,000枚とし、5年でそれを達成する計画を立て、今その進行中である。
"観自在菩薩行深般若波羅蜜多…………"で始まる266文字の『摩訶般若波羅蜜多心経』はまさしく小宇宙の世界である。
般若心経のお教えは一言で言うならば"とらわれない心""かたよらない心""こだわらない心"、すなわち『空』という誠に簡単明瞭な教えである。
しかしながら、それをいざ自分自身に置き換えてみると果たしてどうであろう。特に私などは"とらわれてばっかり""かたよりの固まり""こだわりっぱな し"である。しかし、最近は「それでもいいじゃないか」と半ば居直っており、せめて朝目が覚めてどれだけ長く『空』の心で過ごせるか、「今日は1時間その 気持ちで過ごせた、明日は1時間10分でいい、空の心でいよう」と思い始めた。そう思い始めることにより非常に楽になり、目の前が明るくなった。
今年は6万年ぶりに火星が地球に接近した年だった。私も何度か東南の空を見上げ、特に8月末日頃には大きく燃えるような火星を見ることが出来た。9月初日 には肉眼で見ても月と重なり合っているように見え、まるで月と火星がランデブー(少々古臭い言い回しであるが)をしているようだった。それから日が経過す るにつれ、だんだん小さくなり我々の視界から消えていった。今度地球に近づくのは西暦2287年頃だそうである。もちろん私はこの世にはいない。しかし宇 宙は存在する。そして般若心経の教えもまたこの地球のどこかに語り継がれていることだろう。
宇宙は150億年前にビックバンによって創世されたと言われている。それに比べ、我々の人生など針の穴ほどもない。つまらない偏見で他人を判断するのをや めよう、妙な差別をなくそう、民族紛争がこの地球上でなくなってほしい、もう宗教戦争はやめよう、宗教は本来人間を救うものではないか、と願っている日々 である。
私は自分が下手な文字で書いた『お写経』を時々人にもらってもらうことがある。最近腹部大動脈瘤の大手術をした友人におくった。「気合のこもった般若心 経」という表現でお礼を言われた。手術の前日にも関わらず額に入れたそうである。大いに恥ずかしい限りである。娘が夏休みにウィーンから帰省したので日本 を離れる時に持たせた。友人には"病気平癒"と書き、娘には"大願成就"と書き記した。私は"心願成就"と最後に記している。
1000枚になり私が亡くなったら棺の中へ入れるように頼んである。
未熟な私の旅は果てしなく続く……

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  46. お写経

私は驚くほど字が下手である。どれくらい下手かというと、自分で書いた字が読めないくらい下手なのである。手帳に書き記したスケジュールがどうしても解読できず、とにかくその時間は空けておいて訪ねて来た人を見て『あぁそうだったのか』と気付いた事など枚挙に遑がない。
その私がこともあろうに、1年半程前からお写経を始めたのである。それまでにも奈良の薬師寺と京都の鞍馬山で1~2度したことはあったが、見るに絶えられ ない字で相当の時間を要したことを記憶している。お写経に対する思いが芽生え強くなっていったのは、多分に二千年に行ったお遍路が影響している。お遍路に ついては、日記を綴っているので詳しくは記さないが、泣きながら、悩みながら、悶えながら、無事一人で終え、高野山にお礼とご報告に行った後、心のどこか に空洞ができていたのは確かであった。
それから2年ほど経過したある夏の初め、久しぶりに京都を訪れた時、何気なく鳩居堂に立ち寄ったのである。そこでお写経グッズ一式を買い求めた。それでも 始めるまでに2週間くらいかかり、なかなか踏み切ることができずぐずぐずしていたが、ある事件により自分自身のもっとも嫌な部分を見てしまい、自分を救う にはお写経しかないと悟り、勇気をもって決心をしたのである。
一応当面の目標を千枚と決め、年間二百枚は書けるだろうから五年間と期間を定めた。最初のうちは苦痛以外の何者でもなかった。今でもはっきり覚えている が、58枚目(最後尾に番号を打っている)に、"受想行識"の"受"という字が自分でもびっくりするくらいきれいに書けたのである。続いて"色"そして" 顛倒"と、僅かづつではあるが、字が上手くなったのである。毎月の月次報告会の時、私が黒板に字を書いたのであるが、それを女子社員の一人から「字、上手 くなられましたね」と誉められたのである。
朝7時30分、私の出社時間である。以前は1時間15分くらい要していた時間が、今では45分程で書けるようになった。集中度も70%くらいまで高まって きた。出張や直行が続いて三日ほどお写経ができない日が続くと、心が渇いてくる。
私の一日はお写経から始まる。

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  45. お遍路日記XI

二十九番札所は『摩尼山国分寺(まにざんこくぶんじ)』である。聖武天皇の勅願によって国分寺は各国に建立され、当然の事ではあるが一国一寺であり、ここ は土佐の国分寺である。こけら葺きの屋根を持つ本堂や、風格のある仁王門にその歴史を感じる。土佐日記の作者である紀貫之が土佐から帰郷する際に、最後に 立ち寄った寺としても有名である。三十番札所『百々山善楽寺(どどざんぜんらくじ)』までは車で二十分もかからない。この札所も明治の廃仏毀釈によって一 時期廃寺になり、様々な紆余曲折の後、平成五年にようやくその決着を見、三十番札所として復活したとのことである。
五台山は全山が公園になっており、その頂上に三十一番札所『五台山竹林寺(ごだいさんちくりんじ)』がある。緩やかなやや幅のある石段の両脇は緑にむした 紅葉の並木が並んでおり、そぼふる小雨が一段とその色を引き立てている。秋にはもう一度訪ねてみたくなった。石段を上りきると向かい合って本堂と大師堂が あり、その他にも客殿、宝物殿、五重塔などが建っている。本堂は文殊堂と呼ばれ、入母屋造りの古い建築で、国の重要文化財にも指定されている。知恵を備え た御本尊文殊菩薩は多くの信仰を集めており、四国霊場唯一のものである。また竹林寺は「よさこい節」で歌われている僧、純信と鋳掛屋の娘お馬の悲恋物語の 舞台としても有名である。例の「坊さんかんざし買うを見た・・・…」云々のである。はりまや橋は現在交通の激しい通りに、赤い欄干がその面影を残している だけである。
三十二番札所『八葉山禅師峰寺(はちようざんぜんしぶじ)』のご本尊は十一面観音で、別名『船魂観音(ふなだまかんのん)』とも言われている。土佐沖を航 行する船の安全を願って弘法大師がこの本尊を刻んで祀り、以来海上交通の守り本尊として敬愛されてきた。藩主山内氏も浦戸湾から出るときは、必ずこの寺を 詣で、安全を祈願としたと伝えられている。
雨は小やみなく降りしきっている。ふと道路標識を見ると『高知道』至高松、岡山と記されている。あれに乗れば三時間もしないで家に帰れる。信じられないこ とにそんな思いがどこからともなく湧いて来た。私は慌ててその思いを吹き消し、エンジンキーを回し、カーナビを次の三十三番札所『高福山雪蹊寺(こうふく ざんせっけいじ)』に設定した。
いよ!待ってました!

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  44. それからの猫

今、長女はウィーンにいる。次男はやっと東京から帰って来て、この間ようやく運転免許証を取った。老犬(柴犬)サンタは16歳を迎え体力的には少々衰えたが、相変わらず家族に忠実だ。長男は4年前から当社で営業をしている。男2人は家から離れて姫路に住んでいる。 
家の中には我々夫婦のみであるから、当然愛猫『カーコ』中心の生活を送っている。
そのカーコが昨年7月に腎臓結石を患い、こともあろうに入院を余儀なくされたのである。たまたま家人が旅行と重なった為、私は山崎と病院のある竜野と会社 を駆け回る日々を過ごしたのである。幸い点滴(猫に点滴を打つとは、その時は恐れ入った)を2日ほど打つとすっかり良くなり、4日位で無事退院することが 出来たのである。私が病院まで迎えに行くと、それまでイライラが募り、時には毛をそば立てていたらしいが、「にぁ~」と言って、一転してやさしい顔つきに なった。
それから3ヶ月ほど経った頃に、また様子がおかしくなった。『朝、新聞を一緒に取りに行かなかった』し『いりこを"まぁ~まぁ~"と言ってねだらなくなっ た』し『夜中に開けている戸の隙間から入ってきて髪の毛を爪で引っ張ったり、ざらざらした舌で頬をなめなくなった』し、見た目にげっそりした感じになった のである。
これは大変、すぐさま前に入院した竜野市にある病院に連れて行き、血液検査の結果、肝臓が悪くなっており、貧血もかなりひどい状態だということが判明し た。注射も何回か打ってもらい、それから投薬生活が始まったのである。注射の時は考えられない位おとなしくしているそうだが、薬を飲ませるのはひと苦労で ある。私が仰向けにして抱え、女房が左手で口をこじ開け、そのスキに右の指で口の中へ蜂蜜で溶かした薬をなすりこむのである。
私は油断していて、胸と腹を丈夫な後足の爪で引っかかれ、特に腹部の時は血がしたたり落ち、入浴が出来ないくらい深い傷を負った。今でもその傷跡は残っている。
ようやく3月に入り、薬の量も半減し、朝も気が向けば一緒に新聞も取りに行くようになり、食欲も旺盛になり、体重も一時4.3㎏まで落ちていたが(元は5㎏あった)今は5.3kgでやや太り気味である。
私と女房とを上手に使い分け、夜の食事の時は女房の隣の椅子に行儀よく座り、食べ物をねだる。私が風呂から上がると踏みつけそうなくらいにまとわりつき、 夜の歯磨きを終わるまでじっと待ち、終わるやいなや『いりこ』をねだる。
私達が楽しく振り回されている今日この頃である。

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  43. 新たなる出発

一、
私達は、お客様に支持され、必要とされ続けることを喜びとします。
一、
私達は、常にお客様の視点に立ち、知恵と勇気とエネルギーをもって『満足』を提供し続けます。
一、
尚、お客様とはパナホーム兵庫で既に建てていただいた方と、私と関わっていただけるすべての方である。
一、
私達は、素晴らしい人生にするために、大きな夢を持ち続けます。

これが株式会社パナホーム兵庫の新しい企業理念です。私が本格的に経営に携わったのが35歳の時でしたから、約20年になります。この20年の永きに亘っ て、私は重大な過ちを犯し続けてきたのです。先ずそれを全ての社員に、関わり合ってきた全ての皆様に、その犯してきた過ちについて心からお詫びします。
私は、企業の目的は売上をおこし利益を出し、それを従業員や協力業者の方に配分し、自らもその恩恵に浴し、余力があれば社会に還元するものだと信じ、実際 行なってきました。C.S.(お客様満足)はその為の手段に過ぎないと考え、あらゆるシステムを構築し、戦略を立案し実践して参りました。しかし、それら が全く過ちであったことに気がついたのです。
2003年2月10日。午後9時に事業計画会議はスタートしました。メンバーはそれぞれの部署から選ばれた18名。事前に大久保氏の著書『21世紀に残る 経営、消える経営』を手渡し、読んでもらっておきました。その会議が終了したのが2月11日の午前1時でした。そこで出来上がったのが最初に紹介した新し い企業理念と組織図です。
お客様の満足なくして、お客様にお客様の価値をお届けできなくては、企業そのものの存在がありえないことに、私は腹から気付いたのです。ましてE.S. (従業員満足)、協力業者の繁栄、私個人の人生等論外なのです。お客様の視点に立った満足を与え続け、価値をお届け続ける事こそが企業の目的なのです。売 上や利益など二の次三の次なのです。この"お客様に真の満足""価値を提供し続ける"と云う企業の目的を愚直なまでに継続し実践することにより数字などつ いてくるのです。
私は確固たる信念の基に『お客様の視点』に立った経営を行ないます。スローガンは『お客様重視からお客様視点へ』です。この社内報を読んでいただける全て の皆様、これこそが21世紀に健康体で企業が生き残れる唯一のキーワードです。心から信じましょう。そして実行しましょう。実行しなければ何の価値も生み 出さないのです。

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  42. お遍路日記X

フロントガラスに降り出した雨は、やがて肉眼でもはっきり見えるようになった。二十五番札所『宝珠山津照寺(ほうしゅざんしんしょうじ)』から、第二十六 番札所『竜頭山金剛頂寺(りゅうとうざんこんごうちょうじ)』までは4キロそこそこの道程である。西寺と呼ばれている金剛頂寺は弘法大師が修行した霊地 で、本堂の薬師如来は大師自らが刻んだもので、完成すると同時に薬師如来が自分で歩き扉を開き、そのまま鎮座したと伝えられている。重厚なつくりの仁王門 をくぐるとそこは別世界。澄みきった空気の中で私は身も心も洗われていく。納札を札所に納め、灯明と線香をあげる。何年か前に福山(広島)のお寺で買い求 めた数珠を手にかけ、経本をずた袋の中から取り出し般若心経を唱えた。私の読経の声も遍路達のざわめきも深い森の中に吸い込まれていき静けさだけが残って いる。
二十六番札所から二十七番『竹林山神峯寺(ちくりんざんこうのみねじ)』までは30キロ程だが、つづれ折のような山道で90分以上の時間を要した。山の麓 で大型バスから小型のボックスカーに乗り換えていた団体を目にし、何の為にしているのか不思議だったが私自身何度も対向車に道を譲る羽目になりその理由が 理解できた。
神峯寺は標高630メートルの山頂近くに位置しており、行基が開基し本尊は十一面観音である。ようやく駐車場に辿り着いたがそこからも大変だった。最初は 緩やかな階段と思えたが、四十五度の急勾配の階段が続き、さすがに土佐の関所と言われるだけの事はある。修行の道場に入ったと云う実感が湧いてきた。境内 から更に百五十段の石段を登ったところに本堂と大師堂がある。あいにく雨模様で頂上からの景色は良く見渡せなかったが、手入れの行き届いた庭園は見事で、 それまでの疲れを一気に忘れさせてくれる。
神峯寺から次の札所第二十八番『法界山大日寺(ほうかいざんだいにちじ)』までは車で1時間程である。質素な山門をくぐりぬけ、本堂までの境内は敷石が続 き、廻りは白い玉砂利が敷き詰められており、参道の脇には無数の石仏が並んでいる。すっきりした素朴なお寺である。御本尊は大日如来、行基が開山したと伝 えられている。
雨が本降りになってきた。右手に金剛杖、左手に傘、心なしか金剛杖に付けている鈴の音が湿りがちに聞こえる。
私は今独り、土佐の高知にいる…

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  41. 原点復帰の経営

今年ほど厳しい気持ちで新年を迎えるのは余り例がない。未だ我が社における3月末の数字も正確には見えてこないし、日本もデフレ経済からの脱却の糸口さえ つかめていない。小泉内閣にも国民は少々懸念を抱くようになってきた。世情も不安で家族という一つの絆さえも危うくなっている。
もう12~3年位前になるであろう。CSという言葉が耳新しい頃に導入し、社員の意識調査を行い、それに基づいて研修プログラムを組み、約2年程時間を費 やし徹底を図った。その後約2年おきに社内の意識調査をしその浸透度を確認した。私はこれで我社はどこよりもCS経営に早く着手したのだから、徹底され完 成され大いに発展すると確信したのである。事実、業績は増収増益を繰り返し、パナホームグループ利益額NO,1に2年続けてなり、パナホーム兵庫の名は単 にグループだけでなく全国でも知られるようになった。
しかし、それは私の勘違いではなかったかという疑問が一昨年あたりからよぎり始め、昨年9月にそれを確認したのである。その時は自分の中において俄かには 信じたくなかったが、今は事実であると認めざるを得ない。「お客様のため」本当にそうか?それに基づいた行動を取っているのか?自問自答する日が続いた。 私が我社にそんな疑問を持つきっかけになったのは、私に届いた一本のテープだった。私自身2回見直し、あるプロジェクトでもメンバーに見てもらった。
ダムの水が満杯の時は何も気付かなかったことが、水が減ってくると様々なゴミや瓦礫や汚物が目立つようになる。とそのテープは語っている。どこかで聞いた セリフ、つまり私が日頃言っている言葉そのものであった。私は知っていたが解っていなかった、解っていたが行動していなかった、ことに気が付き愕然とし た。私は先ず出来ること、お客様に直接会い、とにかくお礼を言ってまわろうと決め、昨年来のお客様訪問につながったのである。
原点に返ろう、お客様に今何をすることが最も利益になるか考え行動しよう。
今現在、私の心の中にはそれしかない。業績は必ずついてくる。信じよう。

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  40. 書写山円教寺

初秋の午後、ふと思い立って書寫山(しょしゃざん)『圓教寺(えんぎょうじ)』を訪れたくなり、一人で出かけた。特に、アメリカのスーパースターに感化された訳ではないが、ただ何となくその気になったのである。
平日の午後3時のロープウェイには誰も乗客はなく、私だけだった。たった一人だけの乗客の為に、女性ガイドは健気に4分足らずの上昇時間をマニュアル通り に語り、とりわけ愛想を振りまく訳でもなく、頂上への到着を知らせ軽く一礼した。
ここ『圓教寺』は"西の比叡山"と呼ばれ、性空上人(しょうくうしょうにん)が約一千年前に開祖し、鎮護国家の道場であった。今は西国二十七番霊場とし て、全国からの参詣者も多く深い信仰を集めている。また和泉式部ゆかりの寺としても有名で、歌塚も残っている。大小様々な建物が存在するが、本堂は摩尼殿 で、その御本尊は六臂如意輪観世音菩薩(ろっぴにょいりんかんぜおんぼさつ)。御開帳は年に1回、鬼追いの日1月18日にされる。
過去に2~3回は訪れたはずなのに、私を殊の外感動させたのは、大講堂、常行堂(じょうぎょうどう)、食堂(じきどう)である。いずれも国の重要文化財に 指定されている。大講堂の建物自体は室町初期に建立されたと言われているが、本尊である釈迦如来は、平安時代の作で僧侶たちの修行の場に使われたそうであ る。常行堂の本尊は阿弥陀如来で、大講堂と向かい合って建てられており、舞や雅楽が行われた。食堂の本尊は僧形文殊菩薩で修行僧の寝食に供した所である。
大講堂と常行堂が向かい合い、それらを繋ぐかのように長さ40mの食堂が佇んでいる。無駄のない三つの建物は、シンプルの極致であり、美の終着駅のような 趣きがある。中でもとりわけ食堂はこの時代の建物では珍しく、二階建築でその直線美は時空を超越した感がある。
少々汗ばんだ額を山頂のさわやかな風が撫でていった。ふと我に返った私は周りに目をやると、所々で木々が色づき始め、本格的な秋の到来を予感させた。私は 二年前のお四国への遍路とだぶらせていた。独りで旅することの少ない私は、久々に孤独を楽しんでいた。日頃の煩わしさから解放された私は思いきり空気を 吸ってみた。仕事での行き詰まり、家族の事、私自身の身の回りの事、世の中の事、地球上での出来事……あらゆる全ての事がまるで何でもない事のように思え てきた。と同時に自分の至らなさについても改めて思い知らされた。
暮れなずむ書写の山道をゆっくりと歩きながら、私は、生きていると実感した。

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  39. お遍路日記IX

太平洋から吹く室戸の風が、これ以上強くなったら壊れてしまいそうな『岬観光ホテル』は、建物も古く人が歩く度にギシギシと床鳴りがする。主らしい品のあ る夫人とその下働きでのおばあさんと二人でこのホテルを運営している様子である。泊り客は私の他は若い二人づれの女性客だけのようである。入浴を済ませ、 散歩から帰って来ると、間もなく食事が運ばれてきた。
『今日は何番までお打ちになったんですか?』と、私の遍路グッズを見ながら下働きのおばあさんが尋ねた。私が怪訝そうな顔をして黙っていると、お遍路で札 所にお参りすることを『打つ』と云い、その謂れについて語り始めた。
昔は木のお札を巡礼に行った先々の霊場に打ち付けていたところから『打つ』と云うようになり、一番札所から順番に回ることを『順打ち』と言い、八十八番札 所からお参りすることを『逆打ち』と言うのだそうである。ヨーロッパのミステリー映画にでも出てきそうな気味の悪いホテルにしてはまあまあの食事だった。
ほとんどの料理を平らげ、少々硬くて重い寝具に悩まされながらも気持ち良く次の朝を迎えた。お遍路の朝は早い。七時から納経所が開かれるのもその理由の一 つだが、自然に目が覚めてしまうのである。次の札所、その次の札所と心がはやり、お遍路する者の気持ちを前へ前へと押しやってしまうのであろう。
今日からは"修行の道場"高知県である。第二十四番札所『室戸山明星院(むろとざんみょうじょういん)・最御崎寺(ほつみさきじ)』は、文字通り室戸岬の 上にある。最御崎寺までの道沿いに御蔵洞(みくらどう)と云う洞窟があり、そこで弘法大師が修行し、その時求聞持法(ぐもんじほう)を会得し、それまで名 乗っていた『教海』と云う名前から『空海』に改めたと伝えられている。さすがに最御崎寺からの眺めは素晴らしく、どこまでも続く太平洋を見ていると自然の 雄大さを感じる。
この霊場も明治の初年に発令された悪法『神仏分離令』によって起こった仏教の排斥運動、いわゆる排仏毀釈によって荒廃し、大正になりやっと復興したお寺の一つである。
第二十五番札所『宝珠山(ほうしゅざん)・津照寺(しんしょうじ)』は室津港の傍にあり、海の守り神である。百段余りある階段は一直線に空に向かって延び ている。登りもきつかったが、下りはもっと大変で、右手は石段の中央に設けられている手すりに頼り、左手は金剛杖をつきながら降りて行った。
石段の中ほどに鐘桜門があり、休憩の気持ちも手伝って下りの途中で鐘をついた。その鐘の音は太平洋を伝ってアメリカ大陸にまで届きそうな響きだった。車に 戻ってエンジンをかけ、数百メートルほど進みかけたところでフロントガラスに雨粒らしきものが落ちてきた。今日は雨か…

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  38. お遍路日記VIII

標高600mの山頂近くにある第二十一番札所『舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ)』へはロープウェイで登れる。その発着場近くで遅めの昼食をとり、今夜の宿の手配をするが宿坊は空いておらず、室戸岬の最先端にある岬観光ホテルを予約した。
今回の遍路旅で自分自身にいくつかの決め事をしていた。
まず"宿泊の予約はその日にする"
私の性格(何をするのにも前もって決めておかないと落ち着かないと言うより腹立たしくなる)を知っている者にとっては信じられないことだが、敢えてそうした。
もう一つは"髭は剃らない"
髭も爪もそうだが、私は少し伸びると許されないタイプなのである。
今一つは"俗世間からの縁を絶つ"
少々大げさだが、友人、知人、家族、会社などには電話はしないと決めていた。
そして"会う人には全てこちらから挨拶をする"
を自分に課せていた。
第二十一番『舎心山太龍寺』は西の高野山として信仰を集めている。弘法大師が19歳の時、山岳修行をした寺で,ロープウェイから大師が100日間修行した 場所『舎心ヶ嶽(しゃしんがたけ)』を見ることが出来、そこには大師の坐像がある。境内は広々としており、樹齢数百年以上の杉木立が鬱蒼(うっそう)とし ており,霊気さえ感じる。本尊は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)で秘仏,年1度だけ1月12日に御開帳されるそうである。四国八十八ヶ所のうち御本尊が秘 仏の場合が多く,時によれば50年に1度しか御開帳されない御本尊もある。
『太龍寺』を堪能した私は、第二十二番札所『白水山平等寺(はくすいざんびょうどうじ)』へと向かった。そこには朽ちかけた3台の木製の車が奉納されてい た。今なら丈夫な車椅子があるが、その当時足の不自由な人が遍路の為に使ったらしく、そこで行き果て奉納したと聞いた。ウミガメの産卵で有名な日和佐海岸 近くにある第二十三番『医王山薬王寺(いおうざんやくおうじ)』は、また厄落としの霊場としても知られている。33段の女厄坂、42段の男厄坂、61段の 還暦の厄坂があり、どの石段にも足が滑りそうなくらい1円玉がぎっしり敷かれている。
名前から想像すると、高級そうな岬観光ホテルは通り過ぎてしまうほど小さなホテルだった。5時頃に到着した私は、宿のおばあさんに勧められるまま入浴をし た。どうも泊り客は私以外に若い女性の二人連れだけらしい。食事までに少々時間があったので、岬まで散歩をした。室戸岬の先端から見る暮れなずむ太平洋の 海を、2年経った今でも思い出す。高知まで来たなぁと云う感慨に浸りながらも不安と期待が交錯していた。それはその夜吹いた室戸の風のように激しいもの だった。同行二人の旅はまだまだ続く……

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  37. お遍路日記VII

『立江寺(たつえじ)』の山門を無事くぐりぬけ、先を進めた私は、二十番札所『霊鷲山鶴林寺(りょうじゅざんかくりんじ)』へと向かった。難所の一つとは 聞いていたが、いつ終わるとも分からない急な細い山道が延々と続き、途中対向車とあわや衝突しかけたり、何回となく脱輪しそうになった。右手に山肌、左手 に谷、今ここでこの谷底へ転落したら永遠に誰も発見してくれないのでは…などと思うとついつい手に脂汗がにじんでくる。
歩き遍路の人、自転車を押しながら登っている人、そんな人々を後方に見やりながら駐車場へようやく辿り着いた。先ず出迎えてくれたのが、運慶作と言われる 仁王像のある山門である。門をくぐってしばらくすると樹齢千年を越す杉や檜が立ち並び、その間から土佐や阿波の山々が見え隠れする。参道奥の本堂正面に は、左右に美しい白鶴像の彫刻が向き合って立っている。地元の人々に『鶴林寺』の事を別名『おつるさん』と呼ばれ親しまれている所以である。本尊は地蔵菩 薩で、国の重要文化財でもある。
本堂への急な石段を登る頃から、私は歳の離れた女性の二人連れが気になっていた。六角堂、護摩堂、太師堂での途切れ途切れに耳にした二人の会話と振舞いや 雰囲気から察するところ、実の母娘ではなく、どうも嫁と姑のようである。気の遣いようから見てもその判断は間違いなさそうである。私はそのあたりに腰をお ろし二人の様子を伺っていた。白装束に身を包み、適当な量の荷物を背負って歩き遍路をしている様子である。姑に続いて嫁が軽く会釈をして私の前を通り過ぎ ていった。私は瞬間その二人にこの遍路旅に出させるまでの数々のドラマを想定してみた。二人はきっとお互いの生命を削り合ってこの旅に出たのであろう。で も今は二人の表情はこの老樹に囲まれた『鶴林寺』の空気のようにさわやかで清々しかった。
人生の縮図の一端を二十番札所で垣間見た私は、二十一番札所『舎心山太龍寺(しゃしんざんたいりゅうじ)』へと静かに向かった。カーナビよりは道端にある 案内板を信じてロープウェイで登ることにした。ロープウェイの乗り場へ着くと午後一時を少々回っていた。私はそこの食堂で遅い昼食を取りながら今晩の宿泊 の予約をとった。
いよいよ明日からは"修行の道場"高知県・土佐である。

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  36. お遍路日記VI

『焼山寺(しょうざんじ)』の興奮覚めやらぬまま二日目の朝を気分よく迎えた私は、十三番札所『大栗山大日寺(おおぐりざんだいにちじ)』に程なく到着し た。『大日寺』の御本尊は『十一面観音』である。開基は弘法大師。八十八ヶ所のうち、弘法大師の開基によるものが四十一ヶ所で最も多く、次いで行基による 開基が二十七ヶ所。天皇によるものも三ヶ所あり、後は役行者小角などによるものが十七ヶ所ある。
親しみのある『大日寺』から十四番『盛寿山常楽寺(せいじゅざんじょうらくじ)』までは十分とかからない。ごつごつとした岩肌に囲まれた『常楽寺』の御本 尊は四国霊場唯一の弥勒菩薩である。エンジンの温まる間もなく、第十五番札所『薬王山国分寺(やくおうざんこくぶんじ)』に着いた。お四国に来て最初の国 分寺である。四国のそれぞれの県には一つずつ国分寺があり、昔は随分と賑わったそうである。
第十六番『光耀山観音寺(こうようざんかんおんじ)』は町中にある。そのせいか近所の人々のお参りも多く、それらの人たちが唱える般若心経が快く響いてく る。私もその輪の中に入って、朝の挨拶を交わしながらぎこちなく読経をした。
お四国霊場八十八ヶ所の中には、弘法大師にまつわる様々な伝説がある。第十七番『瑠璃山井戸寺(るりざんいどじ)』は、この地の住人から水の悪さを訴えら れた大師が錫杖(しゃくじょう)で地をついたところ清水がこんこんと湧き出てきたそうである。それにちなんで『井戸寺』と名付けられ、その井戸は今も変わ る事なく豊富な水を貯えており、その水を飲むと寿命が三年延びるとのことである。第十八番『母養山恩山寺(ぼようざんおんざんじ)』に残っている伝説は、 弘法大師がこの地で修行している時に、母である玉依御前(たまよりごぜん)が尋ねて来たのであるが、当時この寺は女人禁制であった。そこで大師が十七日間 女人禁制を解く秘法を行ない、母君を寺の中へ招き入れ、孝行を尽くしたと云う話が伝えられている。『母養山恩山寺』という名称もそれらの伝説によるもので ある。
第十九番『橋池山立江寺(きょうちざんたつえじ)』は四国霊場にある関所の一つで、心掛けの悪い人は、この山門より先に進めなくなる、と云う言い伝えがあ る。私は無事進めてほっと胸をなでおろす。十九番まで順調にお参りを重ねた私は、難所中の難所とされる二十番から二十一番へ向かった。しかし昨夜のガイド ブックで知り得たにわかじこみの知識など、何の役にも立たない事を思い知らされ、予想もしなかった光景に出会うことなどその時は知る由もなく、少々浮かれ た気分になっていた。『立江寺』の山門をくぐったのは肉体のみで、精神はくぐれてはいなかったと云う事を、その後の旅でいやと云う程思い知らされるのであ る。

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  35. 目指すはオンリーワン企業

歴史上の人物で誰が好き?と問われたら、即座に『織田信長』と『坂本龍馬』と答えていた。しかし、ここに来て是非それに加えて欲しい人物が一人私の前に登場した。塩野七生さんに紹介され、最近知り合った『ユリウス・カエサル』である。
この三人は生きた時代は全く違うが共通する部分が数多くある。先ず彼らのキャパシティを計る事は出来ない。天才革命児であり、パラダイムチェンジの名人で あった。先見性に優れ、しかも女性にもよくもてた。しかし、悲しいことに三人とも暗殺されるのである。そして、歴史に"もし"はないのであるが、全ての人 に"もし"を言わせてしまう人物なのである。
カエサルは数々の革命をしかも短期間に行なっているが、中でも暦の改定は有名である。勿論天文学から作成したのであるが、当時(紀元前50年頃)に、1年 を365日と6時間と設定し作られた暦は、その後1600年以上も西洋では使用されるのである。また、様々な名言も残しているのでいくつか列挙してみよ う。
"賽は投げられた"
"来た、見た、勝った"
"ブルータス、お前もか"
"特に自らの能力に自信を持つのに慣れてきた人々の自己改革ほど難しい事はない"
"人間ならば誰にでも全てが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない"
等である。特に最後の言葉などは深すぎて「うーん」と唸ってしまうだけである。
私は50を越す年齢になってそれまでとは違う考えを持つようになってきた。例えば、他人を教育することなど出来ない、と思うようになったし、人間の性格は 変えられない事に気が付き始めた。教育は出来ないが訓練を繰り返し行い、システムを創り上げる事で人間の行動を変えることが出来ることが分かりかけてき た。行動を変えることにより自ずと結果に変化が生じてくるのである。
また、多くの人は"自分が見たいと欲することしか見ない"のであるから、見たいと欲するものをよりビジュアルにすることが必要になってくるのである。しか し、厄介なことに、見たいと欲するものが人それぞれであるから、いろんな見たいと思われるであろうものを明確に指し示すことが必要になってくるのである。
その根本的な考え方が"味方を増やす戦略"による、"オンリーワン企業"の構築なのである。企業も集団も個人もこれからの世代はナンバーワンになるかオン リーワンになるかしないと生き残りは難しい。幸い当社は、数々のバイキング料理(システムも含む)を取り揃え、認識していたかいなかったかは別にして、" オンリーワン企業"に近い社風でこれまでやってきた。ナンバーワンにはなれそうもない当社は、これからも"オンリーワン企業"を目指すしか道はないのであ る。これからももっともっと沢山のメニューを増やしていくつもりだ。巡り会った縁を大切にして、健康体で少しでも長く生き続けるために。
"我々の進むべき道はない。進んだ後に道が出来るのである"『ユリウス・カエサル』

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  34. 悲しい別れ

私は、このような粗悪な社屋ではいけない。住まいと云うある種夢を売る仕事に携わっている企業が、作業小屋のような建物では余りにお粗末である、何とか新しい社屋を建てたいと願っていた。
数々の問題点を解決し、やっと設計段階に入ったが、メインである1階をどうするかがなかなか決まらずにいた。そんなある日、私の友人の「ギャラリーにした ら」と云う一言で、トントン拍子に設計がはかどり、ビルの名称もB.F.B(ブライトフューチャービルディングの略)と命名し、無事竣工の運びになった。 完成はしたが、1階のギャラリーについては全くの無知であった私は、名前だけは『ルネッサンス・スクエア』と付けてみたものの、どう運営したらよいのか途 方にくれていた。
当時、私共のようなボロ会社にも学生が来てくれる貴重な大学があった。現在は姫路工業大学に統合されたが、姫路短期大学からの学生だった。その大学の学生 部長は、どうやら絵も描かれるらしいことを嗅ぎ付けた私は、当ギャラリー『ルネッサンス・スクエア』の館長をお願いに行ったのである。その先生が描かれた 絵が姫路短期大学の図書館にあることを知り、その絵を観てからお会いし、館長になって欲しい旨を心からお願いした。それが池内登先生との本格的な出会いで あった。今から十六年前のことである。
池内先生の絵は、フォトリアリズムと呼ばれ、筆は一切使用されず、全てスプレーで描かれる。『フィンランドへの回想』『メタモルフォーゼ』『誰かがよぎっ た』『黄色いマヌカン』『鏡の中の情景』『リフレイン』そして『透過シリーズ』……数え上げればきりがないが、先生の名作中の名作を思いつくままに上げて みた。そのいずれもが、冷酷ともとれる何者の侵入をも許さない張り詰めた画面構成で、一分の無駄もない世界から、知性あふれるエロチシズムが漂ってくる名 画ばかりである。画家としては余りに短い(77歳)不遇な巨匠であったかもしれない。
私の欠落していた部分を、数多く様々な分野から補っていただいた。今の私の半分以上が池内先生によって形成されたと言っても決して過言ではない。私はいつ の日か必ず池内美術館を建立すると云う思いが更に強くなった。
まさに『巨星堕つ』の観である。
2002年1月10日、私にとってもまた忘れられないメモリー日となった。悲しい悲しい別れをした……日に。

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  33. 初めて○○を食べた日~お寿司の巻~

私の通っていた大学は神田御茶ノ水にあった。今は八王子の方へ移転してしまってそこにはない。八王子に移転するまでは所用で東京へ行った時は、時間をさいて御茶ノ水まで足を運んだものである。
私は当時、椎名町(池袋から西武線で一つ目の駅)に住んでいたから池袋まで出、そこから地下鉄丸の内線に乗り換え、地下鉄御茶ノ水駅で下車し、東京医科大 学を横目で見やりながら神田川にかかっている橋を渡って大学へ通った。途中、中央線御茶ノ水駅の前には"ウィーン"と云う名曲喫茶がある。そこで3ヶ月程 ボーイのアルバイトをしたことがある。今の学生はほとんどバイトをするが、当時の学生は余りしなかった。決して裕福だったからではなく、むしろ今よりもは るかに貧しかった。しかしバイトで時間を費やすくらいなら、食費を削ってでも何もしなくてぼやっとしているか、本でも読んでいる方が良いと云う一種の美意 識があったように思う。今の学生は生活苦でバイトすると云うよりは、自分の生活をエンジョイしたいが為にしている。我々がバイトする時は本当にどうにもな らなくなって、生きる為にすることが多かった。(決して良い悪いを言っているのではない。当世気質を言っているのである)
御茶ノ水駅から坂を下っていくと、聖ニコライ堂があり時々は鐘の音を聞くことができた。クリスチャンでもないのにしばしば心が洗われるような思いに浸っ た。一日中居ても飽きない古本屋街、一杯のコーヒーで半日も粘っていた喫茶店、大学の教室よりも長い時間を過ごした雀荘、数え上げればキリがない。その中 の一つに御茶ノ水駅に隣接して寿司店があった。今で云う回転寿司である。実家から仕送りが届いた日とか、麻雀で少々勝った時はそこへ行き寿司を食べた。当 時、一皿10円か20円だったと記憶している。大学での初任給が35,000円位だったから貧乏学生には結構高価だった。
大学を無事卒業し、父の経営する建設会社で働くことになった。社員は30名位だったと思う。各々の社員の誕生月に父である社長と一緒に食事をすると云う催 しがあった。食事の前にサウナに入り、寿司屋へ連れて行ってもらった。すると盥のような桶に入った寿司が運ばれてきた。「なぁんだ、回ってこないのか」 と、私はがっかりした。仕方なくその中の一つを口にほおばった。また一つ、また一つ・・・・・・。これが寿司?今まで私が食べてきたのは一体何?
もう30年以上も昔の話しである。もちろん、その寿司屋さんとは今でもお付き合いをしている。

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  32. お遍路日記V

四国最初の難所『焼山寺(しょうざんじ)』を後にし、暮れなずむ鮎喰川沿いに車を走らせ、本日の宿『うろこ』に着いたのは、午後の6時を過ぎていた。途中 車内から『うろこ』に少々時間が遅れる旨の電話を入れておいたのがよかったのか、宿のおかみさんも愛想良く迎えてくれた。
お風呂をすませ食卓につくと、既に一人老人がいた。相前後して二人の老人がやってきた。どうも今夜の宿泊客は私を含めて四人らしい。やがて老人同士が私の 頭越しに会話をし始めた。その会話から判断し中身を要約すると、
【先にテーブルについていた老人は勿論お遍路さんだが随分痩せこけていて、疲れがピークに達している様子で、食べ物はほとんど喉に通らず、お豆腐のような 柔かい物しか受け付けずビールで体力を持たせていると疲れきった口調で喋っていた。特に21番から20番までがきつく歩く度に内臓にズシンズシンときて、 命がつきる思いだった。(21から20とは読者は少々変と思われるかも知れないが、この痩せ細った老人は、以前に2回お遍路旅をしており、最初は団体バス ツアーでそのお心に触れ、2回目は定年後歩き遍路で巡礼し、今回で3回目だが逆廻り、すなわち88番から1番を目指しているので、21から20となる)  二人連れの老人は友達同士で、暇を見つけては気軽に2泊とか3泊でお遍路をこれまた歩いてしているらしく、今回で2回目の旅だが明日帰る予定で次はまた秋 頃にやって来ると言っていた。老人3人は、最近は自動車やタクシーでお遍路をする者が増えたらしいが、お遍路は少々きつくても歩くのに限る、で結んだ。】
車で遍路をしている私はとうとうその会話の中に入れず、出された食事を全部平らげ、満足して自分の部屋に戻った。寝具は既に用意されていたが、硬そうで、 重そうな布団が無造作に敷かれていた。私は早速宿題に取りかかった。一つは、日記を書く事、今一つは納札(本堂と大師堂の脇に納札を納める札入れがありそ こに納める時に納札に自分の住所と名前を書く。その都度書いていると時間がかかって困る)に自分の住所と名前を書く事である。日記には下手な絵と俳句など も織り交ぜてみた。納札は明日の予定分30枚ほど書いた。
重くて冷たい寝具だったが、翌朝快く目覚め、おいしく朝食を頂き、第十三番『大栗山大日寺(おおくりざんだいにちじ)』へアクセルを踏み出した。
今日は高知県まで行こう、晴れやかな気分でいっぱいだった。

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  31. お遍路日記IV

心地よい疲れを感じながら十番札所切幡寺(きりはたじ)を後にした私は、三十分足らずで十一番札所金剛山藤井寺(こんごうざんふじいでら)に着いた。ここ の御本尊は『薬師如来』であるが、幾度となく災難から逃れて今日に至っている為、別名『厄除け薬師』と呼ばれ、多くの人々から親しまれている。
私は燈明をあげ線香を供え般若心経を唱えていると、「今から十二番や」「おたくもか、うちもや、十二番いややなぁ、堪忍して欲しいわ」と、いうような類い の会話が耳に入ってきた。私は二~三番札所前から多少気になっていた人達がいた。大きな布製のバッグに、三十冊前後の納経帳やお軸を入れ、朱印や墨書をし てもらう順番がその人達の後になった時は、結構待たされる事があった。お遍路に来ているのだからイライラするのはやめようと思っていなかったら(普段の私 を知っている者なら信じられない光景だが)耐えられなかったに違いない。彼等はどうもツアーコンダクターらしい。お遍路ツアーの人達がお参りをしている間 に、彼等が納経を済ませてしまう手筈になっているらしい。お遍路の喜びの一つに、納経所で朱印を押してもらい、墨書をしてもらい、三百円を納めさせてもら い、「ありがとうございました」と言い、その札所の御本尊の『御影(おみかげ)』を頂く事がある。その喜びをツアー客の人達はむざむざ放棄しているような ものである。一人旅を選択して良かった、とつくづく思った。
カーナビを『摩慮山焼山寺(まろざんしょうさんじ)』に設定し十一番札所を後にした。十分も経たないうちに山道に差しかかった。その山道も段々幅が狭くな り急なカーブの連続であった。時々すれ違う対向車とぶつかりそうになりながら進んでいく。ハンドルを握る手が次第に汗ばんでくる。もう一時間以上そんな山 峡の道を車を走らせている。道を間違えたのではないか?カーナビは合っているのか?誤ってこの谷に転落したら誰が私を見つけてくれるのだろうか?不安が次 から次へとよぎっていく。ツアーコンダクターの「十二番いややなぁ」と云う呟きが記憶の中から蘇ってきた。
阿波最初の難所『焼山寺』に着いたのは、夕方の五時少々前であった。駐車場から一歩一歩を踏みしめるように本堂に向かった。本堂からは遍路が唱える真言だ けが聞こえてくる。うっそうと繁る杉の木立にその真言も吸い込まれていく。深山の霊気をひしひしと身体全体で感じながら、私は般若心経と光明真言をそっと 唱えた。山の麓では桜は散っていたが標高938mの山腹にある『焼山寺』の境内は満開であった。金剛杖の鈴の音がお山全体に響く。来て良かった、本当に良 かった、一筋二筋涙が頬をつたった。それを拭おうともせず、私はいつまでもいつまでも暮れなずむ焼山寺の境内に佇んでいた。

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  30. お遍路日記III

二番札所で納経帳に初めて墨書をしてもらった私は、金三百円也を納めさせて頂き、山門をくぐって振り返り、帽子を取って深々と頭を下げ、日照山極楽寺(にっしょうざんごくらくじ)を後にした。
六番札所まで思っていた以上にスムーズにお参りが出来た私は、少々早めの昼食を取った。それぞれの札所には弘法大師空海にまつ纏わる様々な逸話が残ってい る。二番札所の境内にはお手植の長命杉があり、三番札所金泉寺(きんせんじ)には水不足に悩む住民の為に掘った井戸があり、六番札所安楽寺(あんらくじ) には遍路の疲れを癒す温泉が湧き出ている。
昼食を済ませ車に戻り、今晩の宿泊の予約を入れる事にした。私は一人旅はもちろん初めてであったが、宿泊の予約なしの旅もしたことはなかった。何時何分の 飛行機でとか、何時何分の電車に乗ってその日の宿泊は何々ホテルで何時頃にはチェックインする、というふうに全てにおいて事前に決めておかねば気が済まな いタイプであるから、行き当たりばったりの旅行なんて私には考えられないのである。それが今回に関してはその日の宿はその日に決める、それも2食付 5,000円以内で、と何故か自分の中で期していた。
この調子ならあと六ヶ所位は充分お参り出来そうだ、今日は十二番まで行こう、とその時はただ単純に決め、十三番付近の宿坊を先ず当たってみた。残念ながら 宿坊には空きがなく、その近所の遍路宿に予約を入れた。カーナビを七番札所十楽寺(じゅうらくじ)にセットし、軽やかに車を走らせた。人間には八つの苦し みがあるが、それを乗り越えれば十の楽しみが得られるという意味の由来のある十楽寺から、本尊は四国霊場唯一の『涅槃釈迦如来(ねはんしゃかにょらい)』 が安置されている九番札所法輪寺(ほうりんじ)まではすこぶ頗る順調であった。
カーブの多いやや細い道だったが、20分もすると十番札所切幡寺(きりはたじ)に着いた。何気なく階段を登りかけたが、段数の多さがふくらはぎから太股の 内側にその兆候が表われ始めた。心臓の鼓動がだんだん早くなり、とうとう頭がくらくらし始めた。手摺につかまって休息を取ると、疲れがどっときた。私より 遥かに年老いた夫婦がゆっくり私を追い越してゆく。私は呼吸を整えてペースを落としながら登っていった。後で調べてみると御本尊から大師堂まで、333段 234段33段42段の順にその石段は続いていた。御本尊は『千手観音(せんじゅかんのん)』。私は心地よい疲れの中、我を忘れて般若心経を唱えた。
旅はまだ始まったばかりである。

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  29. 初めて○○を食べた日~ステーキの巻~

私は幼い頃、身体がことのほか弱かった。生まれた時も未熟児で、よくも育ったと言われたほどだった。5歳の時小児結核を患い8ヶ月余り入院し、闘病生活を 送った。その間に、現代的に言えば院内感染で脳脊髄膜炎を発病し生死の境をさ迷った。医者も匙を投げ「恐らく助からんでしょう。もし運良く生命を取り留め たとしても、脳障害は残ります。覚悟はしておいて下さい」と、宣告されたそうである。
私は命を取り留めるどころか、奇跡的にも五体満足でこの世に引き戻された。私の生命力の強さもさる事ながら、決して裕福ではなかった家計をやりくりして、 高価な薬石の投与をし続けてくれた両親の無償の愛に助けられたと、今でも感謝の念でいっぱいである。
病弱だった私は、小学低学年の間、激しい運動は禁止されていた。いつも体育の時間は見学させられた。夏休みが来るのが嫌で嫌で仕方がなかった。なぜなら夏 休みが始まると友達や近所の仲間達は、皆で川へ泳ぎに行くのが遊びの中心となるが、私は遊泳を禁止されていたので独りぼっちになってしまう。両親は共働き であったから、私にかまっている時間もなかった。そんな訳で大体2週間余り石切神社が近くにある大阪の親戚の家に私は預けられる時期が続いた。今はどう なっているか全く分からないが、当時は桜並木の続く閑静な住宅街であった。
そこでの私の日課は、その家のおばあさんのお寺参りのお供と、せみ捕りであった。お寺参りは、今考えてみると、おばあさんの若い頃の業の強さが災いし、 様々な人に迷惑を及ぼした罪を償うものであったらしいが、その頃は知る由もなかった。お陰で今でも私はお寺や神社への参詣は嫌いではない。せみ捕りに関し ては、その技は名人の域を越えるほど上手くなった。又、そこへ行くと必ずもらえるおこづかい千円も悪くなかった。
夏休みが終わりに近づくと、父が車で迎えに来る。当時、勿論高速道路もない時代であるから、どれくらいの時間を要したか記憶にない。
その年、父は友人と二人でやってきた。お世話になったお礼もそこそこに、親戚の家を後にし、途中昼食を取るためにレストランに立ち寄った。運ばれてきた料 理は鉄板の上で肉がじゅうじゅういっているのが二つ、日の丸の旗が立っているのが一つだった。その鉄板の"じゅうじゅう"がステーキで、日の丸の旗が立っ ているのがお子様ランチであることを知るには、それから二十年の年月が必要だった。

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  28. お遍路日記II

午前7時が来るのを待ち切れず出発した私は、中国道から播担道を迂回し、山陽道の三木ジャンクションから明石大橋を渡り、淡路鳴門自動車道へと車を走らせ ていた。昨夜の睡眠不足もむしろ心地よく感じ、春の風を体全体で受けとめていた。この鳴門大橋を渡るといよいよ"お四国"と云う手前のサービスエリアに車 を止め、コーヒーを注文した。それが煎れたてであったのか予想を裏切るおいしさだった。
事前の浅薄な知識によると、徳島県は『発心の道場』、高知県は『修行の道場』、愛媛県は『菩提の道場』、香川県は『涅槃の道場』と呼ばれ、それぞれのお寺 に御本尊が安置されており、御本尊の真言がある。八十八ヶ所の札所の中で、一番多い本尊は薬師如来で、二十三寺あり、その他には大日如来や阿弥陀如来、虚 空菩薩や千手観音などがお守りされている。その境内には必ず大師堂があり、弘法大師空海がこれまた安置されている。
私は一番札所霊山寺でお遍路グッズ一式(輪袈裟、白衣、金剛杖、納め札、納経帳、線香、ローソク、ずた袋)を買い求め、慣れない手つきで納め札に自分の住 所と名前を書き、持参してきた数珠を手にかけ、御本尊の前に立って般若心経を唱えた。それは多分2月頃の稚拙な鶯の鳴き声のように、たどたどしい読経だっ た。続いて、どういう訳か諳んじていた光明真言を唱えた。大師堂の前に立ち、同じように灯明を上げ線香を供え、般若心経と光明真言を詠んだ。納経所を探し てお願いに行くと、グッズの一つとして納経帳を買った時にすでに墨書も朱印もしてあると言われた。
とにかく、夢だった八十八ヶ所、千四百キロのお遍路旅の第一歩を踏み出した。白衣の背中には南無大師遍照金剛と書かれており、白衣の意は、このお遍路の間 にいつ生命がとぎれてもいいように白装束に身を包むと云うことで、どうぎょうににん同行二人とは『あなた一人ではありませんよ、いつもお大師様と一緒です よ』と云う意味で、いつかお大師様に巡り会えると云う思いが込められているのだそうだ。
宗教心の全くない私をここまで駆り立てたものは一体何なのか?自分とは?生きるとは?様々な煩悩の中、霊山寺を後にした。金剛杖に付けられた鈴の音が快く 阿波路に響き渡る中、二番札所極楽寺の山門をくぐった。少々汗ばんだ頬を4月の風が撫でていった。

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  27. 二十一世紀の提言

私達はこう考えています。
 

「人間は決して一人では生きていけない、と。
人間は時代を越え、人種を越え、性別を越え、あらゆる階層を越えて、かかわり合って生きている、と。
その人間が暮らし、住まいする『家』は本物でなくてはならない、と。
しからば本物とはよく考えられた創り出されたものでなければならない、と。
すなわち『家』とは創出するものである、と。」
 

期待と不安の中で、とにもかくにも二十一世紀はやって参りました。二十一世紀を占う 意味において、二十世紀がどんな時代だったか少し振り返ってみますと、一言で云うとすれば、物で栄え心で滅んだ、百年だと思っています。余りに個々の利益 を追求し過ぎたのです。例えば、自分自身の・自分の国の・自分の属する民族の・自分の信じる宗教の利益のみを、しかも損か得かと云う価値観だけで追い求め た時代でした。しかしながら世紀末を迎えるに至って、"人類はこのままでいいのだろうか?"と云う素朴な疑問を抱く人々が現われ始め、議論が交わされるよ うになり、様々な提言と共に実際の運動が展開されるようになりました。そしておぼろげながらではあるが、その答えを"やさしさ"に求めようとしています。 私はまさしく人類の叡智の到達点がそこにあるように思えてならないのです。
私は昨年十月、総合展示場からの全面撤退を内外に宣言しました。理由は色々とありますが、最大の要因は、展示期間(4~5年)の終了と同時に解体してしま う事に耐えられなくなったのです。見るも無残に潰されていく姿にたまたま遭遇した私は、『環境』とか『資源』や『エネルギー』と言われ出した二十一世紀に おいてこんな無駄な事を、この様なハートのない過ちを繰り返してはいけないと、感じたのです。
モデルハウスは勿論大切です。今後も建てていきます。但し従来型ではなく、真の意味で地域に根差したモデルハウスを建設していきます。お客様に宿泊して頂 き、パナホームを実際に体感して頂いたり、クリスマスパーティとかお子様の誕生パーティとかちょっとした地域の婦人会の集まりにも利用して頂けるようなモ デルハウスを考えています。そして4~5年経過した後は喜んで住んで頂ける方に土地とご一緒にお売りしようと思っております。そうすれば、粉々に解体され るモデルハウスを見る事はありませんし、住んで頂ける方には喜んでもらえ、私共も無駄を省く事が出来、地球環境にもやさしく、三方全て円く収まると考えて おります。無駄な投資が無くなるその分だけ、良いものを価値ある価格で皆様に建てて頂けると信じています。
今私達は、『健康』『自然素材』『たまり場』『コミュニティ』『バリアフリー(ユニバーサルデザイン)』の五つのテーマで家創りに取り組んでいます。それ を具現化したモデルハウスが『やしろの家』として加東郡社町にあります。その様なモデルハウスをここ数年かけて、私共のエリア内に20ヶ所ほど建て、皆様 に御提案したいと思っております。
新しい世紀、新しい年の幕開けにこの様なことを、パナホーム兵庫は考え活動していこうと思っています。
 

(平成13年1月14日『神戸新聞』掲載記事より)

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  26. 初めて○○を食べた日~ピラフの巻~

とにかく大学生活ほど楽しかった時期はなかった。朝目が覚めれば起きて、夜眠くなれば寝ればよかった。何をいつまでにどのようにしなければならない、なん て事は皆無だった。万年床の上に置かれたホーム炬燵は机も飯台も兼ねていたし、もちろん寝具でもあり、時には麻雀台にも変身した。電化製品と名が付くもの はスタンドとラジオくらいだった。掃除はほうきで済ませたし、洗濯はたらい盥と溝のついた選択板と固形石鹸があれば充分であった。もっとも洗濯などは1ヶ 月に1度するものだと思っていたし、事実結婚をした時女房が毎日洗濯をするのが不思議だった。
仕送りのお金が底をつき始めると、ハガキ1枚でせしめたインスタントラーメンでしのいだ。(どのように"せしめたか"と云うと、官製ハガキ《当時確か5円 だったと記憶しているが》に、インスタントラーメン会社、たとえば○○食品宛に、『貴社の何々ラーメンは大変おいしく愛食しています。しかし残念な事にこ の間食べようと思って封を切ると、その中から麺と一緒にワラくずが出て参りました。』等と書いて出すと、必ず一週間以内に小包で十食分くらい送ってくるの である)さらに、田舎から送ってもらった米を炊くと、ラーメンライスが出来上がる。余程寒い日以外は下駄ばきで登校したし、詰襟の学生服を着込み、バンカ ラを気取っていた。私を唯一苦しめた期末の試験も、ヤマ感と度胸で何とか切り抜け、無事4年間終える事が出来た。
その頃私は入学時についつい美人に誘われて、下心だけで入部した華道部に籍を置いていた。流派は草月流だった。ある時、先輩のお供をして、関東華道会連盟 の会議に出席したのであるが、そこに衝撃的な出来事が待っていた。かつて見たこともない品性と穏やかさを兼ね備えた美人N子(30年以上も昔の話だが名前 も顔も未だにはっきりと覚えているが、ここではN子にしておく)に出会ったのである。彼女は共立女子大の学生でやはり私と同じように先輩のお供として出席 していた。私はありとあらゆる手段を使って彼女の家の電話番号を調べ上げ、彼女に電話をかけ、これまた奇跡的にもデートの約束を取りつけたのである。
有楽町で『風と友に去りぬ』を観て、その後食事に行った。彼女は、
「ここのピラフとってもおいしいのよ、私エビピラフを頂くわ」と言った。
私は、相当お腹も空いていたので、
「ボ、ボクもエビピラフにします。それにライスもつけて」


N子とは当然の事ながらそれっきりになった。
『ピラフ』は青春の砂を噛むような味だった。

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  25. 二十一世紀はどんな社会になるのだろう

二十世紀もいよいよカウントダウンの状況になってきた。1948年生まれの私は、その中で半世紀を生きてきた訳であるが、二十世紀を一言で云うならば、物で栄え、心で滅んだ百年だと思っている。
余りに個々の利益を追求し過ぎた。例えば、自分自身の・自分の国の・自分が属する民族の・自分の信じる宗教の…利益のみを、それも損か得かと云う価値観だ けで追い求めた時代であった。そして大多数の人々は利益を沢山持っている人から順に賞賛し、崇め認めたのである。その利益が清か濁かは問わなくて。
しかし、二十世紀も終わりに近づくにつれて"人類はこのままでいいのだろうか"と云う素朴な疑問を抱く人達が少数だが現われ始めた。しかも、賞賛され、崇 められ、認知された人達の中からそれを唱えるようになったのである。皮肉な現象かも知れないが、その階級の人達が言い始めたからこそ、他の人々も僅かずつ のスピードと人数ではあるが耳を貸し始めたのである。誠にその勇気と賢さには敬服するのみである。
ここで二十一世紀を占う意味において、二十世紀に起きた事実を重大ニュース的に列挙してみようと思う。
* 2つの世界大戦
* 人口の増加(11億から60億に)
* 共産主義の台頭とベルリンの壁崩壊
* コンピューターの普及
* 宇宙開発
* エネルギー問題(石油・原発)
* 女性参政権実現
* 国際連合発足
* ベトナム戦争
* 民俗紛争多発
私は性善説者である。人間はそんなに見捨てたものじゃない、と思っているタイプなのである。人類は時として様々な過ちを正義と云う形を借りて犯してきた。 その度毎に反省をし、立ち直ってきたのである。その傾向は僅かであるが、世紀末になった今日うかがえる。二十一世紀はまさしく"やさしさ"の時代である、 と同時に"IT"の時代でもある。相反する二つの事柄が上手に混在され、バランスよく流れ、覚醒する百年であると予想される。
我々は二度と世界戦争は起こしてはならない。民族紛争も宗教戦争もなくならなければならない。地球規模で物事を考えて欲しい。しっかりとした宇宙観を持っ て欲しい。世界のどの地域においても飢えで子供の命を奪ってはならない。人種でその人の価値判断をするのはやめよう。世界のどこへ行っても笑顔が溢れてい て欲しい。緑多い青い地球を取り戻そう。
私が生きている間にこれらの事が予感出来れば最高の人生だったと思うであろう。もう25年あるかどうかであるが…

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  24. お遍路日記I

あまり定かではないが、30歳を超える頃からであろうか、私の中に無常と云う意識が芽生え始め、宇宙に興味を抱くようになり、無とか空と云う概念がほんの 少しではあるが解りかけてきた。その思いが40歳を過ぎるとより一層高まり、50歳を迎えた今日爆発し私をお遍路へ駆り立てたのではなかろうかと推測され る。
私は幸か不幸か父の意志を継ぎ、二世経営者としてビジネスの世界に身を置いている。大学を卒業し、数年は一般社員として、営業、工事、総務を経験し、早く に取締役(親の七光で)に就任し経営者の仲間入りをした。その間本当に一言で言い尽くせない出来事の連続であった。勿論今後も想像もおぼつかない事柄が待 ち受けていると思うが、とにかく私は四半世紀に渉って経営者として、良くも悪くも生きてきた。誠に無責任な話だが、その時々においてこれが最良の決断であ ると信じ行った事が、後年振り返ってみて最悪だった事など枚挙にいとまはない。私はその分だけ、いやそれ以上に罪を犯している事になるのである。そんな積 年の思いと、ここ1~2年、今一つ業績が伸び悩んでいる反省が遍路へ旅出させた引き金となった。
四国には、お四国と四国とがあるそうだ。お四国は場所的、地理的には四国であるが、お四国と四国とは全く違うのである。何が違うかと云うと、空間が違うの である。私も初めは何の事かさっぱり解らなかったのだが、その事を後になって感じるようになるのである。私もこれまでに何度か四国の地を踏んだ事はあった が、その場合は四国であって、お四国ではないのである。お遍路として四国を訪れた瞬間から、四国はお四国に変わるのである。つまりお遍路さんには、周りの 人、例えばタクシーの運転手、食堂の女店員、旅館のおかみさん、道行き交う人々、風景も人間もこの世に存する森羅万象全てがイメージチェンジし、お四国に 変ずるのである。
2000年4月17日午前7時、私はたった一人、自分の生まれ育った山崎を後にし、ワクワクする思いと不安が交錯する中、第一番札所・阿波徳島、霊山寺に向かって出発したのである。
今まで味わった事のない異次元空間を求めて…

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  23. 初めて○○を食べた日~お好み焼きの巻~

今は殆ど見られなくなった光景だが、我々が小学生の頃、つまり40年位前には、半数近くの割合で、習字教室や珠算塾へ通ったものである。それは多分に、 『読み、書き、そろばん』を習うと云う風習が、日本古来の信仰に近い形で残っており、それ程裕福でない家庭でも子供たちに通わせたのだと推測される。現在 の軽薄な進学塾とは形態は似ているが、体質の上では全く違っていた。先ずおおらかさの面で異なっていたし、塾と云うよりは習字やそろばんは、或る種のコ ミュニティの場であったように思う。
私は現代の少年犯罪を含め、刹那的な物の考え方の根源は、進学塾とゲームにあると思っている一人である。勿論それらをこの社会に提供した、利益のみを尊重 する企業の責任と己の私利私欲を追求する大人達の責任の重大さは、計り知る事は出来ない。今、我々はその罪を償わされているのかも知れない。
私は習字の方は一ヶ月も続かなかった(そのお陰で大人になった今、象形文字のような字しか書けなくて後悔している)が、そろばんは興味を持ったのか以外と長い期間通ったように記憶している。
その日は冬の寒い夕方だった。いつものように『いとこ』と二人でそろばん塾へ行き、1時間程習いまた肩を並べて帰る途中、
「腹へったな、お好み焼き食べへん?」
といとこが私を誘った。
「お好み焼き?」
「お前食べた事ないんか?」
「ううん、食べた事あるけど、今日お金持ってへん」
と言うと、自分がおごってやると言って店の前に自転車を止めた。
今はそのお店は河川改修の為立ち退きになってしまったが、揖保川と云う川に沿うように建っており、母娘2人で営んでいた。いとこは顔なじみのようで間合い よく注文をし、私もそれにならった。母親の方が大きなコテを巧みに操り、手際よく焼き上げ、ソースをたっぷりかけ鰹節を振りかけた。私はいとこが食べるの を横目で見やりながら、それに気がつかれない様に、もう何回も食べているのだ、と言わんばかりの態度でまねをしながら一口食べた。
『ええ、こんなおいしいものがこの世の中にあったのか。見た目は"ながし焼き"に似ているが、味は似ても似つかない』
一週間後、なけなしの小遣いから代金の20円をいとこに払った。私はこのいとこだけには負けない、とその時思った。いとこも二代目で会社を経営している。

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  22. これが最後の猫について

今日は朝から欠伸ばかりしている。出社してからもそうである。秘書(生意気にも昨年4月より置いている。最初は秘書に秘書がいるようだったが、1年も経過 すると今は何故もっと以前から置かなかったのだろうと思うようになった。第一、無意味な電話は一切シャットアウトできるし、自分で朝の紅茶やコーヒーも入 れなくて済むし、コピーをしに階下へ行く事も無くなった。本当に無駄な時間を取られなくなった。その分自分の時間が持てるようになったかというと、それが 結構多忙になってくるのだから皮肉なものである。それでも心のどこかでは分不相応だと自覚し、多少世間に気は使っている。まぁ、孤独な経営者の可愛いわが ままだと許して欲しいと思っている)にも、「寝不足ですか?」と言われた。
理由は我が家の愛猫『カーコ』である。はっきりは覚えていないが、午前4時頃から家内の部屋と私の部屋とを何十回となく往復したはずである。家内は畳ベッ ドで寝ているのだが、ドアは開けぱなしである。私は布団で休んでいるが、引き戸を15センチ位開けたままにしている。それを『カーコ』は、自分は充分に睡 眠をとっているものだから、私達が眠っているのが面白くなく、それに空腹も手伝って起こしに来たと推測される。
どちらが根負けするか、私は無視する事にした。すると『にゃあ~、にゃあ~』に、壁や襖に爪を立てる『カリ、カリ、ガリ、ガリ』が加わり、おまけに頬をあ の"ざらざら"の舌で舐め回すサービスがプラスされると、もう私の負けである。彼?は私が意識して無視しているのをとっくにお見通しであり、そのうち私が 折れるのも承知なのである。
全く腹の立つ『やつ』である。
私は捕まえて布団の中に押し込んだ。2~3分位はおとなしくしていたが、私の腕からするりと抜け出すと、階段を一気に駆け下り、また駆け上がり私の枕元をぐるぐる歩き回り始めた。
少々早いが私は起きる事にした。彼?は私の足元へ来て、私が階段を下りるのと同じスピードで、まとわりつきながら1階へ下りて行った。トイレに行くとつい て来る。「新聞、取りに行くか?」と言うと、玄関の土間で待っている。抱えて新聞を取りに行き玄関ホールまで戻ると、ドンと飛び下りる。私がスイッチの 入っていないコタツにずり込み新聞に目を通し出すと、全く何事もなかったかのように、テレビの上にジャンプし眼を細める。
彼?は自分は猫だとは絶対に思っていない。

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  21. 或る決心

本当は『発心』と書きたかったのですが、私の薄い宗教心では申し訳ない気持ちと面映ゆさから、『或る決心』としました。
NHK番組で、日曜朝6時30分から、正確には6時52~3分頃まで、約22~3分間、四国八十八ヶ所巡りの旅を放映しています。ふとんの中でまどろみな がらか、居間で新聞片手にかは別として、余程の事がない限り、私の1週間のうちで決まった行動の一つになっています。「喜多郎」をBGMに「加藤登紀子」 の心地よいナレーションで、様々なゲストが1ヶ月毎に登場し、嫌味なく、まるで5月の風のように旅していきます。このつたない原稿がPHP誌に載る頃に は、丁度八十八番札所を迎えているかも知れません。(1月16日の放映は八十番札所白牛山国分寺でした。)
その番組の影響を受けた訳ではありませんが、この4月には是非私もその旅をする決心を致しました。実は1年前、会社の業績目標が未達の場合は行こうと心に 決め、密かにその準備を進めていました。幸か不幸か何とか目標数字が達成したので中止にした経緯があります。が、しかし本当の私の心の奥底には、目標を達 成してよかった、と云う気持ちより、八十八ヶ所巡りをしなくて済んだと云う思いの方が強かったのではないかと、実感しています。成る程目標数字は達成した が、達成したのは数字だけで、真の目標は達成していなかった事に気が付いたのです。全く情けない話ですが、その為に現在その"つけ"を払い苦労しているの です。
私も50歳を過ぎました。二十一世紀も目の前です。それがどうしたと云う訳ではありませんが、思い立ったら吉日と云う例えもあります。何かを得られるかも 知れませんし、また得られないかも知れません。もう、その辺りの事はどうでもいいと思っております。先ず始める事こそ大切だと自覚しました。
出発の日も決めました。白衣に身を包み、輪袈裟を首からかけ、金剛杖をつきながら、背中には『同行二人』と記して、自分自身がお遍路をさせて頂いている姿を今は、はっきりと想像出来ます。

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  20. 初めて○○を食べた日~どぜうの巻~

最近、やたらと大学時代の事を思い出す。しかもかなり鮮明にである。私は4年間の学生生活で3回引越しをした。その度毎に、藤沢に住み運転免許を持ってい た池永に、バンを持ってこさせ手伝ってもらった。荷物といってもしれた事で、かさばる物は机とホームコタツくらいで、一往復で充分だった。
そのうち2年余りを過ごした椎名町(池袋から西武線で一つ目の駅)時代が、最も印象深く想い出として残っている。我々(私は従兄弟と同棲していた)が住ん でいたアパートは2階建てで、1階は大衆食堂になっていて2階は全部で5室あった。我々の隣は美人姉妹が住んでおり、姉は働いていたが妹は跡見学園という 短大へ通っていた。その隣は夫婦もんで旦那は売れない作家、奥さんはどこかのスーパーで働いているようだった。それでもたまに原稿料が入った時は、2年余 りで1~2回しかなかったが、果物やお菓子を差し入れてくれた。その向かいは独身のサラリーマン風の男が住んでいて、その隣は居るのか居ないのかはっきり 分からなかった。時々は灯りが点いていたのを見かけた事があったので、誰かが住んでいたのであろう。
我々が住んでいたアパートと比べ、向かいは高級マンションだった。5階建てでエレベータもあり、全部で30室位あったと思う。1階はずらりと店舗が並んで いた。そのマンションの一室に、新進気鋭で売り出し中の写真家篠山紀信と張り合っていた、満田というカメラマンが住んでいた。大変気のいい人で、麻雀もよ く負けてくれたし、入手した秘蔵のフィルムを我々の仲間に見せてくれたりもした。
ある日、満田さんが「いい仕事ができた。美味しいものを食べに行こう」と僕と従兄弟を誘ってくれた。男ばかり3人では色気がないので、マンションの1階に ある、バー『ラビアンローズ』の朱実も誘っていく事になった。早速タクシーに乗り、着いたところが浅草にある『駒形』と言う"どぜう"料理屋だった。名前 は聞いて知っていたが、我々貧乏学生がとても行けるような所ではなかった。故郷の田舎にはいくらでもいる"どじょう"が『駒形』にかかれば"どぜう"に なってしまうと感じた。駒形のどじょうだけは、今でも"どぜう"でなければならないと、思っている。

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  19. またまた猫について

私の朝は早い。5時半起床。朝食を済ませた後、約40分、距離にして3kmを散歩をする。7時過ぎに車のエンジンキーをまわし、8時には姫路の本社に着き、玄関のカギを開け、セコムを解除する。ここ5年程ほとんどそのパターンは変わっていない。
が、しかし2年前から或る重要な出来事が一つ加わったのである。
朝食の後、私が洗面所で歯を磨き出すと、どこからともなく、例えば2階の家内の寝室にある整理ダンスの上で死んだように眠っていても、今は家内の作業場 (パッチワーク)になっている和室のダンボール箱の中でうずくまっていても、玄関脇の小窓の枠の上で遠くを見つめていても、テレビの上で気持ち良くうす眼 をあけてこちらを見ている時はもちろん、足音を忍ばせて、私の足元にまつわりついてきて、私の顔をうかがうように、上目使いで、
「まぁ~」
と、鳴く。
何故、「にゃあ」ではなくて「まぁ~」かと言うと、幼児言葉で家内が、食べ物の事を「まんま」と我が家の猫、すなわち「カーコ」に教えてしまい、普段は 「にゃあ」だが、食べ物の時のみ「まぁ~」と、いわゆる猫なで声を発するのである。
「まぁ~か、そうか、そうか」と言いながら、私は嬉しそうにいそいそと台所へ行くと「カーコ」も勿論付いて来る。流し台の下にある扉を開け、そこから『いりじゃこ』を数匹取り出し与え、
「ありがとうは?」
と私が話しかけると、「カーコ」は私の手の甲に何度も何度も・・ほほずりをする。「どうぞ」と言うと一心不乱に食べ始める。その後姿に何とも云えない哀愁を感じる。私は思わず背中をなでてしまう。
でもその瞬間だけである。私の願いを聞き入れてくれるのは。夜寝る時、私が抱えて布団の中へ連れていっても、せいぜい3分から5分程である、一緒に居てく れるのは。「カーコ」と呼んでも、5回に一度も私の元に来る事はない。
明日も5時半に起きるであろう。そう云えばいりじゃこが少なくなっていた。家内に買っておくように頼んでおこう。

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  18. 宇宙についてすこしだけ

今年の七夕の夜は何年ぶりかで珍しく晴れ渡り、天の川を挟んで彦星と織姫の、年に一度の逢瀬を地上から見ることが出来ました。彦星はご存知の通り、鷲座の 首星アルタイルの和名で、牽牛星と言い、いぬかいぼし、いなみぼしとも呼び、一方、織姫は織姫星とも織女星とも呼ばれています。
星座については余り詳しくありませんが、宇宙について多少なりとも興味を覚え始めて四半世紀になります。百五十億年前、ビッグバンによって生成されたと云 われる宇宙。その中にいくつもの銀河があり、何かの雑誌で読んだのですが、その内の一つにアンドロメダ星雲があり、そのアンドロメダ星雲までは地球から二 百三十万光年かかるのだそうです。
ひと口に二百三十万光年と言っても気が遠くなる時間です。ちなみに暇にまかせて計算してみますと、一光速は三百キロメートルですから一光年は、約九十四億 六千万キロメートルになり、それの二百三十万倍だからまさしく天文学的数字になり、時間とか距離と云うよりむしろ空間を超えた他次元の世界の話です。
その宇宙の神秘に勝るとも劣らないのが我々人間の魂も含んだ肉体であると云われ、小宇宙と称される所似です。例えば、何故我々はここに存在するのか、と云 う全く素朴な疑問に対して正確に答える事が出来る人は恐らくいないでしょう。『我思う故に我在り』です。自分自身のルーツを、たった三十代溯るだけで二十 億人以上のDNAと魂がその肉体に宿っているのです。その二十億人の何処かで何かがほんの少しだけ狂っていれば、今の自分は存在しないのです。そんな頼り なさと同時に、単なる神秘や偶然では片付けることが出来ず、もはやそれは多少おこがましい表現をすれば、必然と考える方が正しいのかも知れせん。
それを必然と考え、このとてつもない宇宙から尊い生命と燃えるようなエネルギーを授かっているとしたら、当然我々は何かの形で恩返しをしなければと思うのです。
恩返し、すなわち誰かのために何かをする事であり、その時その時を精一杯生き切る事だと考えています。
年に一度の逢瀬を観ながら、昨年のしし座流星群の天体ショーを想い起こし、書いてみました。

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  17. 初めて○○を食べた日~ピザの巻~

高校時代に仲間7人で『ねんりんの会』と云うグループを作り、革新的で文化の匂いのする一寸したエリート集団を気取っていた。
一人ずつ紹介すると、沖田は3度目の海外生活で今はアメリカに居て、或る自動車メーカーの合弁会社の社長として、文字通り悪戦苦闘を強いられている。要領 が良かった久田はあいかわらずで、小市民生活を楽しんでいる。旅行好きだった秋山は旅行会社に就職し、リストラの総責任者としてここ2~3年眠られぬ夜が 続いているが、この前会った時は今度は自分の番かもしれないと嘆いていた。手先が器用だった安田は歯の技工師をしているが、その競争も厳しく、忙しい割に 儲からないらしい。地元にUターンして来た根本は、未だ青臭い青年のままで、外国かぶれで訳のわからないブランド物を時々見せに来る。最も仲が良くて しょっちゅう我が家にも泊まった塩谷は、本当に信じられない事だが、駅のプラットホームをほろ酔い気分で歩いていて、特急電車に跳ねられ亡くなってしまっ た。
毎年お盆にみんなでお参りしおしゃべりするのであるが、このグループで私だけが大学受験に失敗し、1年間の浪人生活を経て無事入学するのを他の6人が待っ ていてくれて、その記念に秋山が九州旅行を企画した。その時の楽しそうな顔で塩谷はいつも登場してくる。
その旅行はいかに安くあげるかが最も重要な課題の一つであったので、現在はあるかどうか知らないが、当時若者の旅行と云えばほとんどがユースホステルを利 用したものであった。ユースホステルでの最大の楽しみは、夕食の後の宿泊者全員でのゲームとかキャンプファイヤーであった。その場で見知らぬ者同士が、特 に男女が知り合うきっかけを作ることにあった。
私も例に洩れず2人連れの女子大生と知り合い、そのうちの一人が東京の大学に通っていて、帰ったら会おうと云う事になったのである。
初めてのデートの日、待ち合わせ場所はもちろん『忠犬ハチ公』の前である。私は意図して定刻に行くと彼女はもう来ていた。
「どうする?」
「ボ、ボクは東京はこの4月に来たばかりなので何もわかりません、おまかせします」
「わかったわ。じゃ私にまかせてくれる。ジャズはきらい?」
「きらいじゃありません」
好きも嫌いもない、今まで一度も聞いた事がなかった。生まれて初めてジャズの生演奏を聴いた。それから食事に行ったのであるが、そこで彼女は『ピザ』を オーダーしたのである。私は洋風お好み焼きか、と思いながら食べた事だけは覚えている。
青春のプロローグだった。

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  16. 猫パートⅡ

我が家には、10才になる柴犬がいる。性別は雄で、人間の年齢にすれば、もう還暦を過ぎているそうである。子供達(3人)に手がかからなくなった寂しさを 紛らわすためと、運動不足解消と、多少のダイエットの希望を膨らませた妻の強い希望で、私が知人を通じて買ってきたのである。最初で最後の一時間を超す家 族会議の末、『さんた』と命名をした。
以来、文字どおり雨が降ろうが槍が降ろうが朝は40分、夕方は20分、夜中は寝る前に家の周りの散歩を一度も欠かしたことはない。妻がいない時、体調を崩 した時は私がその代役を務めることになる。またこの2~3年前からは、ドックで引っかかった私のごく軽い糖尿病を妻が大いに心配して、朝の散歩に一緒に行 くように命令が下った。ゴルフの飛距離アップと体力作りにも丁度いいと思い、余程の事がない限り早起きして歩いている。
子供達と同じように甘やかして育てたものだから、「おすわり」と「待て」しか出来ない犬だが、特技もある。それは自動車のエンジン音で、3~40台はあろ うかという会社の社員の車かどうかを聞き分けることが出来るのだ。社員以外の車が駐車場に入ってくると猛烈に吠えるが、社員の車には吠えないのである。 ドッグフード意外のものは食べさせたことはないし、年2回春と秋には必ず予防接種を受けさせているし、冬の夜は家の中へ入れて暖かくしてやっている。その せいか、とても元気で1年に3回も毛が生え変わる。病気らしい病気はしたことがないが、少しでも便の色や硬さに異常がある時は、すぐ動物病院へ連れて行 き、早め早めの手当てをしている。
ある時、あれほど好きな散歩を嫌がる日が続いたので、診てもらうと「ぎっくり腰」になっていた。それはもう大変で、夫婦2人揃って手を変え品を変え看病し たものだった。ただ、心残りに思っていることは、彼が童貞のままで終わってしまいそうなことである。『さんた』が死んだら盛大に葬式をしてやろうとか、墓 は必ず建ててやろうとか、1週間くらいは泣き暮らす日が続くだろうとか、もう二度と犬を飼うことはないだろうなどと話している。


でも、猫の存在は犬のその比ではない。

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  15. 「チャリティー展」について

十年一昔というが、ギャラリーの催しの中で11年間続いているものに、年末に行っている「チャリティーのためのミニアチュール展」がある。絵画から陶芸、 彫刻、写真等あらゆる分野のプロの作家80名程の方々から約230点の作品を出品して頂き、200名余りの人々から入札してもらい、毎年300万くらいの 売上げがある。そのうち、作家の方々へのお礼や経費を差し引いて、100万位を『はりま自立の家』正式には「(財)兵庫県心身障害児福祉協会」へ寄付させ ていただいている。
この『寄付させていただいて』で実はすべてを表しているのだが、もう少し詳しく記そう。100万位なら、といったら多少ぞんざいなものの言い方になるかも しれないが、本業で寄付する事はそんなに難しく、負担になる金額ではない。毎回毎回作家の先生方に出品依頼をし、その搬入や搬出に手間暇をかけたり、 200名近くの方に入札していただき、その当落を知らせ、代金の集金や作品の送付など煩わしい事、この上ないのである。
では何故そのような面倒くさい事を神経を使いながら行っているかというと、できるだけ多くの人々に"ボランティア"とは何かを知ってもらいたいがために、 また、自分以外の人のために何かをする、というすがすがしさを感じてもらいたいがために続けているのである。
京都の街で、托鉢の僧が商家の暖簾の前に立ってお経を読み上げていると、中からおかみさんが出てきて、お米か何かしらの金銭を鉢の中へ入れる。おかみさん は『恵んでやっている』と思っているかもしれないが、托鉢の僧は『させてやっている』と実は思っているのである。おかみさんの心の中にある物欲をはじめと する諸々の業欲を少しでも捨てさせてやっているのである。
作家の方々に出品させてあげているのであり、買わさせてあげているのである。だから、『寄付させていただいて』へと続くのである。その瞬間だけでもそう思うようにしている。

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  14. 初めて○○を食べた日~ラーメンの巻~

大学の受験風景もその時々の社会情勢を表わしていて、誠に興味深いものがある。地方の者が受験のために泊まる宿泊所ひとつをとってみても、様々な変遷があ る。最近は大学側が推薦したり、指定の宿泊所があるようだが、ビジネスホテルクラスが圧倒的に多いようである。バブルの頃は一流ホテルに出入りする受験生 の姿をテレビのブラウン管を通じてよく見かけたものだ。そのもう少し前、流行語大賞があったなら多分受賞していたであろう<教育ママ>という 言葉が絶頂期の頃は、一流ホテルのスイートルームに母親(ママ)も一緒に泊まり、かいがいしく面倒を見たものである。子どもが女の子ならまだしも、男なん かだったりした日には、もうその光景を思い浮かべるだけで吐き気をもよおしてしまう。
我々の時代はとなると、もう30年以上も前の話になるが、大学の受験校も親に相談したこともなければ、宿泊所はもちろん受験案内書から探し出し、自分で予 約をし、当り前のことだが全てをひとりで段取りしていたものである。
私が京都の大学を受験するために駅前の旅館に泊まった時のことである。さながら、小学校の修学旅行をイメージしていただければわかりやすいと思うのだが、 部屋の間の襖を取っ払って20畳ほどの大広間に14~15人が宿泊していた。2泊目の夕方、突然訪問者があった。旅館のおかみさんに呼ばれて1階へ降りて みると、私の父親の弟、つまりおじさんが優しい顔をして、
「兄貴から連絡があってな、時間が取れたから来てみた。どうや」
と言って、外へ連れ出してくれた。叔父は神戸市交通局に勤めていたのだが、父からの依頼を受け、わざわざ様子を見に来てくれたのである。
連れていってくれたのは、京都駅デパートにあった食堂だった。何か食べたいものはないかと問われたが、特にないと答えた。叔父は何かを注文したようだっ た。その時、私は『しまった』と思った。隣りの人も、その向こうの人も食べているものがやけに美味しそうだった。『僕もあれと同じ物を食べたい』つばを飲 み込んだが、叔父には言えなかった。後は心の中で叔父が『どうか同じ物を注文してくれていますように』と祈るのみだった。
注文したものが運ばれるまでの時間が、やけに長く感じた。
「お待ちどうさま。ラーメンふたつですね」
と店員が私達のテーブルに置いた瞬間、私はこの世の幸せを一人占めしたような笑顔になり、店員の顔が天使に見えた。
今でも、ラーメンを食べるたびに思い出し、ニヤリとしてしまう。

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  13. 涙

最近、涙腺が弱くなったのか、甘くなったのか知らないけど、すぐ涙がこぼれそうになったり、実際こぼしたりする。決して年齢のせいではないと思うが、半世 紀近くも生きているといろんな出来事に遭遇し、その時々の喜怒哀楽が精神か肉体のどこかの引き出しにしまわれているものだから、つい取り出してしまうのか もしれない。
例えば、テレビを見ていて何気ない情景や会話に、本を読んでいて知らず知らずに引き込まれてしまって。また、愛猫が少し開けていた窓から居なくなって、夫 婦で夜の町を一時間以上も探し回り、疲れ果てて家に戻ったとき、何食わぬ顔で床に寝そべっていた...という話を第三者にするとき、等々である。
我々には、人前で涙なんか見せるものではないし、男が泣くなんて一生に一度だけであるという美学が存在しているものだから、人知れず涙を流すテクニックは 大変である。まず、目にゴミが入ったような振りをする。次いで、鼻風邪をひいているように取り繕う。あるいは、欠伸をして誤魔化す…。
それでも今までに4回ほど号泣したことがある。そのうち2回が弔辞を読んだ時だから人前である。2人とも会社関係者だった。1人は4年前にクモ膜化出血で 亡くなった弊社の常務である。今、その息子さんをあずかっている。もう1人は協力業者で、親しい友人でもあった。2人とも50歳そこそこだったので、悲し い悲しい告別式だった。今、思い出しても目頭が熱くなる。1年に1度は人知れずお参りさせていただいている。
あとは、25年くらい前に岡山に営業所があったとき、そこで数々の難問題をクリアして宅地の分譲をしたことがあった。その初日に45区画中35区画以上が 売れた。私は所員全員を帰らせた後、ひとりでその分譲地の端から端まで夕暮れの中を歩いた。もちろんあふれ出る大粒の涙を拭おうともせずに。
残りの1回は、12年ほど前である。この会社を引き継いだ時はボロボロだったが、何とか一人前になり、全国の表彰式が東京で行われた。その会場で、私のこ とをもっとも理解してくれていたメーカーのある人に、「よう頑張りはったな。あんたは、酒は飲めんけど一杯注がしてもらいまっさ」と、肩をたたかれながら 言われた時、私はその会場を飛び出し、近くのトイレに駆け込み、まさに胸が張り裂けるほどに慟哭したのである。
最近、御縁があって、ある美人プロゴルファーとお付き合いをするようになった。近いうちにきっと来るであろう彼女の優勝の瞬間が、実は今一番気がかりである。

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  12. ヒロシ

先日、播但有料道路でチケットを渡した時、「毎度、ありがとうございます」という元気な声につられて、その声の主を見ると、見覚えのある顔であった。一瞬のことで名札までは確認できなかったが確かに面影に記憶があった。
思いやりの薄い知人から1ヶ月程前に、
「山下の奴、ヨメはんに逃げられて、店閉めて、どこへ行っとったんか知らんけど、また帰ってきてバンタンで切符切りしようらしいで。落ちぶれたもんじゃ」
と聞かされていた。
私と山下とはそんな親しい間柄ではなかったが、地元の小学・中学・高校と12年間を一緒に過ごし、時々は同じクラスにもなったと記憶している。取りたてて 思い出はないが、今で言う"めんこ"とか"ビー玉"遊びは隣の部落だったこともあり、小学生時代によくやった。
我々が通っていた中学校では正式な陸上部がなかったので、大きな大会が近づくと、にわか陸上部が結成されたものであった。主に野球部とかバレー部の連中が そのメンバーになるのだが、マイナーな競技のひとつである<走り高跳び>いわゆるハイジャンプに出場する選手がいなくて急遽、校内大会が行わ れ、何故かしら私と山下が1位2位を獲ってしまった…というようなことがあるにはあった。
高校は私は進学クラスで、山下は就職クラスだったのでほとんど接触はなかった。高校を卒業すると彼は地元の農協、つまり今風に<JA>に就職 した。私は1年間の浪人生活と4年間の大学生活を終え、父の会社に入り今日に至っている。そう言えば農協時代に一度、生命保険の勧誘にきたことがあったよ うに思う。
何年か後に彼は農協を辞め、一念発起で脱サラをし、自宅のすぐ側に炉端焼きの店を夫婦で開店し、物珍しさと彼の生来の人の好さでずいぶん繁昌していた。 が、不遇にも交通事故で入院するはめになり、店をどうするかとか細かなことは分からないが、奥さんと色々と揉めたらしい。とにかく奥さんが彼のもとを去っ たことは事実だった。情夫と逃げたとか、借金が嵩んだとか、彼が暴力を振るったとか様々な噂話を耳にしたが真意のほどは分からないし、知りたくもない。
この間、播但有料道路の料金所で、
「ここに、山下博って居ますか?」
と思い切って聞いてみた。
「ああ、ヒロシね。おるで、今日は遅番かな」
という返事が返ってきた。彼はここでも『ヒロシ』と呼ばれていた。そういえば、我々も彼を苗字で呼んだことなんてなかった。いつも、誰も、彼のことは『ヒロシ』だった。
もし、またここで『ヒロシ』に会っても、声はかけずにおこう。そう思いながら私は、アクセルを踏み込んだ。

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  11. 本

私は本が大好きである。大好きというより、周りに本がなかったら耐えられないタイプである。仕事柄、ビジネス書や専門書を読むこともあるが、小説のほうが圧倒的に多い。大体、小説が7割で残りの3割がビジネス書の類である。
ビジネス書の中で、「これは!」と思ったものに、"田中要人氏"の書かれた『社長業の心得』と『社長業の実務』がある。この2冊は、私に社長とは何かを教 えてくれた。それまでの私の"社長像"といえば父であったし、父そのものが社長であり、父のしている仕事が社長の業務であると信じていた。確かに父のして いる事も社長の仕事ではあったが、それは偉大なる創業者としての仕事であり、二世である私にとっては全くといっていい程あてはまらなかった。そういう意味 において忘れられない本である。
物心ついて、最初に読んだ本が『三国志』である。小学2,3年の頃の事だから児童用に書かれたものだったと思うが、とにかく面白かった。徳の劉備、勇の関 羽、豪の張飛と桃園で義兄弟の契りを交わすところから物語は始まり、孔明の知勇に優れた活躍はハラハラドキドキの連続であった。何年か経ってから吉川英治 の『三国志』を読んだ時も、その感動は変わらなかった。
デモと麻雀に明け暮れていた怠惰な大学生活を送っていた時期に、友人が「そんなバカなことばかりしていないで、これでも読め」と言って渡してくれたのが 『国盗り物語』であり、それが司馬遼との出会いになった。続いて『竜馬が行く』『坂の上の雲』と一気に読み漁った。ビジネスの社会に身を置くようになった 今、3回も4回もそれらの本を読み返す事になるとは、当時は想像も出来なかった。今では棺桶の中に入れて、是非あの世まで持っていき、司馬遼にサインのひ とつももらいたいような気持ちである。彼は小説家というよりむしろ歴史家といったほうが適切かもしれない。今では暇に任せて『街道を行く』を楽しんでい る。
好きな小説家の一人に池波正太郎がいる。何といっても鬼平は痛快で、あの密偵達とのやりとりに人間を感じるし、男涙を誘われてしまうシーンである。『剣客 商売』も『坂の上の雲』同様、必ず棺桶に入れてもらうよう、頼んでおこうと思っている。どこかに遠出(海外も)する時にも必携であり、どのくだりを何度読 んだのかは覚えていない。
今、取り組んでいる本は"塩野七生さん"が著かれた『ローマ人の物語』である。まさしく取り組んでいるという表現がピッタリの書物である。今年中に読破で きるかどうか四苦八苦しているが、とにかく読み応えのある興味深い本であることは間違いない。
本は大好きである。いろんな人とおしゃべりができるから...。

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  10. 花

朝の散歩の途中で、ふと見上げると『松』の木にうすいピンクの花が咲いていた。そんなはずはないと思いよく見てみると、『松』の枝に覆い被さるようにして 『アカシア』の木があり、その花が散って松葉に引っ掛かっているのだった。まるで『松』に花が咲いているように見えたのだが、見直してみると足元にも花び らが散っていた。
私が住んでいる山崎町を縦断している中国縦貫道を車で走っていると、山中にこんなにも『アカシア』の木があったのかと思うほど、悲しげな色をした花が目 立っている。丁度、5月の連休前後に、あちこちから湧き出るように『藤』の花が咲き、山々を紫色に染めてゆくのに似ている。
先生の都合で12年近く続けていたお花のお稽古(池坊)をやめて2年になる。それからも女子社員の協力で、社内のあちこちに生け花の絶えることはなかった が、ここ半年はさっぱり見なくなってしまった。当然、私の机にはその時節のお生花や盛り花が飾ってあったが、同じく今は無くなってしまった。
想うに、花は花自身が美しいのではない。決して花は美しくない。今、会社の玄関前の花壇には『ベコニア』が植えられている。しかし、社員の中でその存在に 気がつく者は半数もいない。ましてや、きれいと想う者はさらに少ない。花の美しさは、その花を見る人の心の中にこそ存在するのである。花は、ただ存在する のみで、それを見て美しいと感じる人こそ美しいのである。
私は、『都忘れ』という花が一番好きだ。あの可憐な様子は、どんな花もかなうまいと思う。次に、『木瓜』の花であり、『梅』へと続く。畑一面に咲く『菜の 花』もまた、佳しと思う。今年は天候の不順で、太田神社の『杜若』を見損ねてしまった。何かしら大きな忘れ物をしたような気持ちである。
いくつになっても、どんな時代が来ても、花を愛でる気持ちだけは持ち続けたいものである。

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  9. 息子

「おおつかー、おおつかー」
という車掌のアナウンスの声に、私は少し顔を紅潮させながら、わざとゆっくり駅のホームに降りた。なぜなら東京の山の手線を目的とは反対方向に乗ってしまったのだ。
1時間ほど前、息子と巣鴨の駅で別れた。そして、駅前の公衆電話で面と向かってはどうしても言えなかった、
『本当は、お前が心配で心配でたまらない。出来れば1ヵ月ぐらい一緒に居てやりたい』
と伝えて、巣鴨駅の一角にある、だだっ広い喫茶店で不味いコーヒーとモーニングセットを食べ、お昼前の新幹線に乗るべく、東京駅に向かったはずであった。 それが、「大塚」ではお話にならないではないか。「駒込」方面行へ乗らずして東京駅へは行けない。
間もなく次の電車が大塚駅ホームに入り、私は辺りを伺いながら乗り込んだ。そして、さっき息子と別れた駅へ着いた。
「すがもー、すがもー」
というアナウンスに再び鼓動が早まったが、「駒込、田端」と過ぎて行くうちに平静を取り戻し、昨日からの出来事を思い浮かべてみた。
次男は、1年間京都で浪人生活をしていた。予備校へ行くはずであったが、今まで一度も体験したことがない寮生活の窮屈さに、少々ノイローゼ気味になり2ヶ 月で寮を引き払い、アパートに移ったものの、それからは多分一度も予備校へは行かず、只々毎日をぼんやり暮らしていたようだ。気がつけば、親も子も3月に なっていた、というのが事実である。
急遽、進路について親子会談をしたところ、まったく唐突に、本当は放送とか芸能関係に興味があり、そちらの方面に進みたいと言い出し、東京の専門学校へ行くことになったのである。
東京へ引っ越す前々日に、妻が京都のアパートへ行き、引越しのための荷造りをし、翌日の早朝、引越しセンターが収集してくれ、姫路から新幹線に乗った私は 京都駅で息子と落ち合い、東京へ。妻は自宅へ帰っていった。
その夜、息子と始めて二人きりで夕食をとり、池袋のホテルへ泊まった。
そして今朝、知人に頼んで探しておいたアパートへ行き、引越しセンターのトラックを待ち、荷物を片付けたのである。1年間の独り暮らしでも、息子の荷物は ほとんど増えておらず、整理するのも1時間足らずであった。私は仕方なく帰途についた。
新幹線が静岡を過ぎる頃には、私も落ち着きを取り戻し、明日からのビジネスの多忙さにうんざりするほどになっていた。
息子の、
『今度は、いろんなことに挑戦してみる』
という言葉だけを信じようと思った。

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  8. 色

暇な時に、広辞苑を開かれることをお勧めする。
最近気になっている「色」という項目を引いてみた。大別すると二つの意味がある。ひとつは"色彩"、もうひとつは"恋愛"。
私の少ない海外旅行経験と浅い知識から察するに、日本ほど四季の美しい国は他にはないと思う。
春は桜、夏は夕立、秋は紅葉、冬は雪。
今少し列挙してみると、
<春>啓蟄、彼岸、朧月、陽炎、野焼、雛祭り、鶯、猫柳、芹、土筆
<夏>入梅、土用、更衣、浴衣、氷水、蚊帳、花火、時鳥、鮎、初鰹、蛍
<秋>夜長、月、野分、新米、秋刀魚、鈴虫、柿、秋桜、菊
<冬>短日、木枯、氷柱、足袋、焚火、顔見世、河豚、落葉、水仙
(参照歳時記)
どれをとってみても、移り行く四季の様子を肌で感じることが出来る。指先の感触、頬を撫でてゆく気配、鼻の奥で嗅いだ香り。そして、それらから様々な色を連想することも容易だ。
しかし最近、街から色が消えつつあるのではないかと嘆いている。特に若い女性は、ほどんどが同じような髪型をし、病人のような口紅を差し、黒かあるいはく すんだ色の洋服を着ているように思う。それは多分に、結婚、妊娠、出産のため休業をしている超アイドル歌手の影響があるのかもしれないが、街は殺風景に なったものだ。私の娘も、私が買い与えた赤いコートなど着ようともせず、自分で選んだ黒いヤッケのようなものを着ている。茜色とか藤色、あずき色などとい う言葉さえも、死語になっているのかもしれない。又、自然とつきあう機会が減ってしまったのかもしれない。
もう一方の"恋愛"の「色」について更に調べてみると、色男、色香、色敵、色狂、色事、色黒、色知....ときりがない。どれもこれも文字を見ただけで胸 の高鳴りを覚える。携帯電話での待ち合わせも合理的だが、次の逢瀬の約束は会っている時にするものだ。次に会う日を思いながら時間を過ごすほうが、私は好 きだ。源氏物語ではないけれど、後朝の文を送り、たっぷりと余韻を楽しみたいものである。

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  7. 酒

「まあ、まあ一杯」

影の声「その一杯がダメなんです」

「ここからでしたら、這ってでも帰れるじゃないでか」

影の声「いいえ、私は車で帰りたいのです」

「今晩は泊りですから、一杯くらい」

影の声「ええ、飲むと余計苦しくなって、眠れないんです」

「ワシの酒が飲めん言うんか」

影の声「誰の酒でも飲めんもんは、飲めんのです」

このような会話を幾度繰り返したであろうか。この50年いや正確には、30年の間に。そしてこれから先、何年これを言い続けるのであろうか。
私は酒が呑めない。勿論、ビールもウィスキーもダメである。弱いと言う域ではない。まるっきり受け付けないのである。日本酒なら盃に2杯が限界で、ビール に至ってはコップに半分程度、水割りは極薄いのを1時間かけて呑む。しかし呑んだが最後、激しい頭痛や不快感は言葉に出来ない。要するに体質なのである。 科学的に言えば、アセトアルデヒドを分解する酵素が無いのである。その昔、大学生の頃、3回ほど先輩に無理矢理飲まされ、2~3日寝込んだことがある。訓 練すれば呑めるようになるというけれど、死ぬ思いまでして呑めるようになりたいとは思わない。
我々、酒が呑めないものは、酒を飲むものを一応認めている。にも係わらず、酒飲みの連中は我々を認めようとしない。<こんな美味しいものを知らない のは可哀相だ>とか、<何一つお前に対して文句はないが、酒を飲まんのだけは腹が立つ>とか、宴会も一段落した頃を見計らって遠慮がち にご飯を食べようとすると、<早や、飯を食べて、場が白ける>などと平気で言う。放っておいてくれ、お前達がいくら呑んでも文句を言ったこと があるか、と言いたい。
酒だけに限らず、この人間社会においてはこんな例を挙げればきりがない。ペットしかり、音楽しかり、スポーツしかり、趣味と名のつくものはほとんどが自分 の好みがもっとも良くて、それ以外を認めようとしない。それを宗教や民族にまで持ち込んでしまうと、もうそれは悲惨でしか有り得ない。その特効薬は宇宙観 しかない。
お酒呑み様。どうか酒は楽しく、静かに嗜んで下さい。

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  6. 過去

私の中にある『過去』というメニューをクリックすると、30年前に画面は変わる。怠惰な大学生活にまで一気に戻る。決して、その途中の駅には停まらないし、小学生・中学生時代まで、さかのぼることもない。必ず毎回判で押したように、大学生の自分と再会するのである。
私は一年間、京都で浪人生活を送り、東京の大学に入った。その頃を思いつくままに並べてみると、長髪、フォークソング、反戦、デモ、ノンポリ、麻雀、ゴー ゴー、ジャズ、ダンパ、ビートルズ、万博、銀巴里、新宿、ストライキ、中核、催涙弾、深夜放送、失恋 ・・・・・。
とにかく明日することは何もなかった。今日することは、今日起きてから考えればよかった。何もすることがない時に大学へ行けばよかった。大学へ行き、教室 を見渡してから狭いコンクリートの中庭を横切り、神田の古本屋街を横目に見ながら雀荘の細い急な階段を上り、北西の一番隅のテーブルで30分も待っていれ ば4人のメンツはすぐに揃った。今なら携帯電話で呼び集めるだろうが、そんな面倒なこともする必要はなかった。検事の息子、大学教授の次男、アメリカ娘と 結婚した奴、卒業してからもずっと司法試験を受け続けているらしい男。何故かしら歯医者の息子なのに法学部で、卒業後、他の大学の歯学部を2年も浪人して 入り、今は無事に歯医者をしている者。新宿騒乱罪で逮捕された時、薄汚れたタオルの下から血を流していた革マルの闘士。唯一クラスで現役で司法試験に合格 した天才。ダンス、ビリヤード、ボーリング、スキー、全て一流にならないと気が済まなくて、今ではゴルフのスコアカードをファックスしてくるが、ゴルフだ けは私に勝てない湘南ボーイ。武蔵野に住み、小原流の花をたしなみ、透き通るような白い肌を持ち、たった一度だけデートをした共立女子大の女性。そして、 彼女に「弟達が庭でサッカーをして芝生を傷めて困るの」と言われたあの日。
金は無かった。どれ位無かったのかと言うと、4人でバーへ行った時、全員で1,500円しか持っておらず、それぞれの時計を外してトイレに立つような振り をして近くの質屋に走り、支払ったこともあった。でも、みんな生きていた。今は生きている人が少なくなったように思う。
今日も真っ赤に埋まったスケジュール帳を見ながら、明日のことばかり考えている。明日など存在しないと言うのに。

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  5. 猫

猫を広辞苑で引いてみますと、「食肉目の家畜。エジプト時代から人に飼われ、偶像化され、神聖視された。現在では愛玩用、鼠駆除用など品種が多く、また毛色により三毛猫、烏猫、虎猫、雉猫などに区別する」とあります。
我が家に、もう4ヶ月以上も前から猫がいます。正式には、「預かっている」というべきかもしれませんが、います。名前は<カズ>といいます が、去勢してからは誰もそうとは言わず<カーコ>と呼んでいます。実は、倉敷で音楽の勉強をしている娘が、独り暮らしのさみしさを紛らわす為 に飼い始めたのですが、あちこちへ出掛けることが多くなり、我が家で面倒を見始めたのがきっかけで、今では3人の子供たちがいなくなった夫婦2人きりの空 間に、なくてはならない存在になっています。
私はもともと猫が大嫌いでした。食わず嫌いというか飼わず嫌いだったことがイヤというほどわかりました。[猫可愛がり]という言葉がありますが、これは まったくその通りです。朝は5時半頃から6時の間に、私たち夫婦の枕元に、目覚し時計よろしく、必ず起こしにきます。階段を降りる際には、踏みそうになる 位まつわりついて離れようとしません。事実、女房はその為に足を滑らせて、豊満なお尻をイヤというほど打ったそうです。かといって、捕まえて抱いてやって も少しも嬉しそうにはせず、頬擦りをしてもむしろ迷惑そうにします。しかし、そのまま放って置くと、いつしか布団の中へ潜り込んできたり、頭や顔をザラザ ラした舌で舐めにくるのです。追えば逃げる、無視していると擦り寄ってくる、手に入りそうで入らない、性悪美女そのもので、やきもきのしどうしです。
ゴルフに行った時は、大変です。必ず、下着やシャツを一枚ずつビニール袋に入れて帰ります。何故かといえば、猫の排泄物を処理するのにビニール袋が必要だ からです。余分に持って帰るのは、名誉あるゴルファーとしては気がひけますから、一袋に1枚ずつ使い、大体4~5枚頂くようにしているのです。
猫は、1日のうち3分の2を寝ておりますが、敏捷なことはこの上ありません。もちろん、カーテンや網戸は穴だらけです。黒と白の雑種ですが、我家へ来てか らは、私達夫婦に似てきたのか?いい顔になった、と近所の評判です。
緑色の目の奥から、彼は果たして私達人間をどう観ているのでしょうか。少々恐い気もする今日この頃です。

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  4. 嫁への贈り物

春先は私の好きな季節のひとつです。森羅万象、すべての息吹が聞こえてきそうで、なんだかこちらまでうきうきしてきます。
先日、ある人に、
「貴方が書いているPHPの記事を全部切り取り、残しておいている人がいて、その人が貴方に会ったらよろしくと言っていたよ」
と、言われました。私は、『ドキッ』としました。実のところ締め切りを忘れていて、慌てて何を書いたやらわからないまま編集部に送ったり、記録として残し ていないため、同じ様なことを何回も書いているのではないかと、不安になったり、どうしても書きたいことが見つからず、ただ紙面だけを埋めたり、随分いい 加減なことをしている自分を知っているだけに、本当に恥ずかしい思いがしました。
私は文章を書くのは嫌いではありません。でも文字を書き、人前にさらすのは大嫌いです。何故かと申しますと、恐ろしいほど字が下手だからです。どのくらい 下手かと言いますと、自分で書いた文字が判らないことが度々ある――ほど下手なのです。でもその文字を人前にさらしています。ひとつは、契約していただい たお客様への礼状です。これは印刷では申し訳ありませんし、他の者が書いたのでは何の意味もありませんので、私が書いています。件数が少ないときは礼状は 少なくてすみますが、会社にとってはあまり歓迎すべきことではありません。多い時は便箋百枚以上になることも、お陰様で時々あります。有り難いことだと思 い、下手は下手なりに書いております。
もうひとつは主に営業マンにですが、毎月の契約に対する奨励金に添えて、私のコメントを書いて渡しております。ある時、社員の仲人を頼まれてご両親がご挨拶にお見えになったとき、お母さんから、
「貴方の息子に対するコメントを入社以来、すべて読ませていただき、私が持っております。これを今からは息子の嫁になる女性に渡そうと思っております」
と、言われたときにもびっくりしました。それからは、出来るだけ丁寧に、汚い言葉は避けようと思いました。他人様はどこで私のことを見ているのか判らない、平生往生だと、つくづく感じ入りました。

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  3. 年頭に思う

輝かしき'97年の年頭に際して、皆様方におかれましては、益々ご健勝でご活躍のこととお慶び申し上げます。
私にとってこの2年、すなわち'95年と'96年程早くて短い2年はなかったように思います。本当に文字通り「あっ」という間でした。
社会的な問題は別としまして、住宅業界に限ってのみ言えば、'95年1月の阪神淡路大震災に始まり、極度の職人不足、それを何とか解消し平準化したと思え ば、消費税の増大による受注の低迷と、アップダウンの繰り返しでした。消費税に関して弊社は、決定した3年前から手を打っていたにも関わらず、その波を少 なからずかぶっておりますが、具体的な対策を怠っていた業者の打撃は相当であると予想されます。
本年は、バタバタの2年間を取り戻す意味でも、ゆっくり腰を据えて過ごしたいと思っております。
私が最近思っていることの一つに、「人間には善人や悪人はいるのだろうか」があります。人間は人を判断するのに、何をもって善なりとするのか、あるいは悪 なりとするのかという疑問です。人間は時として(一般的という意味で)同じ人が良いこともしますが、同時に悪いこともします。あんな悪人が、という人でも 過去をさかのぼれば良いことの一つや二つはしているものです。
現在までの私の結論としては、人間に善悪は無いと思っています。というより我々凡人が決められないのでないかと考えています。ただ、あるとすれば良い行動 悪い行動はありますが、その行動そのものをとらえて即、悪い人間良い人間と決めてしまうのは大変恐ろしいことだと思っています。一度そのように周囲が決め てしまうと、その人間は永久に良きにつけ悪しきにつけそうなってしまいます。それをレッテルを貼ると言うのだそうです。
我々は今まで何枚のレッテルを何人の人に貼ったことだろうかと思うとき、私は自責の念にかられてしまいます。人は人を裁けないと思っております。だから法 があり、法律がやむを得ず人を裁いているのです。少なくとも私はこの先、レッテルだけは貼らないようにしようと決めています。でも本当に難しいことだと思 います。

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  2. 常識

本当に月日のたつのは早いもので、今年もあと1ヶ月程になりました。皆様にとりましてこの1年はどんな1年でしたでしょうか。私は今からゆっくり考えてみようと思っています。
先日、友人がこんな話を私にしました。
「お前もよく知っている、Aさんの奥さん、常識のない人らしいね。この間Aさんが亡くなったとき、生前Aさんと親しかったBさんが言ってたよ。葬式のこと やそのほかの段取りがわからないからって言うから、いろいろシテヤッタのに、葬式が終わってから礼にも挨拶にも来ないって」
私はその友人にこう言いました。
「それはBさんの言い分だろう。じゃ、一体常識って何なんだ?誰が決めたの?君の話だけで判断するのは難しいが、私はBさんがシテヤッタのに、と言った言 い草が気に入らない。Bさんはシテヤッタと思っているかもしれないが、Aさんの奥さんはシテイタダイタとは感じていないと思うよ。第一、Bさんの意識の中 にそういう気持ちがある以上は、Aさんの奥さんは御礼など言いたくもないだろう。自分の友人であるAさんの死に際して、いろいろなお手伝いをサセテイタダ イタと、Bさんが感謝すべきじゃないかな。シテヤッタ、シテヤッタと思っているから挨拶にも来ないなどと言って腹を立てたりするんだ。サセテイタダイタと 思ったら、有り難いとこそ思え、腹など立つ道理がない」と。
その他、様々な例を挙げ友人に、これでもか、これでもか、という程繰り返し話をしました。もう彼も二度と私にはそういった類の話はしないでしょう。私はその種の話題が大嫌いなのです。
もう5~6年前でしょうか、中途採用で入社してきた社員が、社内旅行から帰ってきた翌日、私の部屋に来て、
「旅行に行かせていただいて有り難うございました」
と言ったことがあります。私は、
「君に礼を言われる筋合いはない。私が君の分まで金を払った訳じゃない。君達が楽しかったなら、それでいいんだ」
と言いました。彼は、ぽかあんとしていました。給与やボーナスももちろん、<私はこれだけしてやっている>などと一度も思ったことがありませ ん。当たり前のことかも知れませんが、中小企業では8割以上のオーナー社長は、<シテヤッタ>と思っているし、実際に声に出して言っていると 思います。もし、それが常識なら、そういう企業は21世紀には生き残れないでしょう。

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  1. 経営とは?

私は、ここ数年間、経営について考え続けていた。「経営とは?」「企業を経営するとは?」いったいどういうことなのだろうか。そのことが、私の頭の中から離れたことは一度もなかった。
私 は、幸か不幸か創業者である、ある意味に於いて大きな存在である父の跡を継ぎ、若くして経営者の仲間入りをした。最初のうちは、経営のまねごとをしてい た、といった方が確かだった。経営者として右も左もわからないまま、岡山へ行ったり、新しい拠点を作るのに奔走していた。丁度、35才の時が今から考えれ ばチャンス(と言うより大転機)だったのかもしれない、八幡ナショナル住宅(現パナホーム兵庫)という会社と必然のうちに巡り会った。
私はもがき、苦しみ、焦り、怒り、時には泣きながら今日まできた。少々の成功に天狗になり、驕り、奈落の底に突き落とされたこともあった。そのたびにいろんな人に助けられた。
今 から振り返れば、「アッ」という間の13年間である。しかし、その時々においては、長い長い1年であったり、1ヶ月であったり、1週間であった。もっと も辛く悲しいことは、お客様に叱られることだった。何十回何百回、お叱りを受けたか、計り知れない。「お前は、社員にどういう教育をしているのだ」は、必 ず言われた。私には勿論返す言葉もなかった。ただ、心から謝るだけだった。今は、少しは社員教育も行い、多少は改善されたと思うが、百点満点はあり得な い。まだまだご迷惑はおかけしていると認識している。
詰まるところ、経営とは私は「奉仕」であると確信している。社員に奉仕し、お客様に奉仕し、下職に奉仕し、地域社会に奉仕し、日本に奉仕し、世界に奉仕する。
私は、まず従業員が満足しないのに、お客様に満足は与えられないと思っている。従業員が会社に不満たらたらで、どうしてお客様に満足などしてもらえるはず がないと思っている。だから、最初に「社員に奉仕をし」から始まり、誠に申し訳ないが次が「お客様に奉仕」となる。

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