或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

香山草紙 エッセイ集


  56. お遍路日記XV

本日の宿泊は「冨士廼旅館」である。冨士廼旅館は街中にあり、これまでの宿泊地と違い廻りは大そう賑やかである。この近くには宿坊もなく、安い旅館も予約 でいっぱいだったので、仕方なくそこにしたが、料理は今までになく良かった。中でも、炭火の入った七輪での紙鍋は最高だった。自家製の味噌で味付けがして あり鴨とネギに鱶の肉を混ぜ、季節の野菜もたっぷり入っており、今思い出しても唾が出るくらいである。ただ残念だったのは体調を崩しかけていた私は、食欲 があまりなく残してしまったのである。
昼間、眼鏡のレンズを落としてしまったので、それを買い求める為と少々の気分転換も含めて、食事を済ませてから街に出てみることにした。眼鏡を買ってから お酒が飲める人ならどこかスナックでもというところだが、私はそうはいかない。しばらく散歩をして近くの喫茶店へ入ってコーヒーを注文した。奥の方には一 組のカップルがいたが、私が入ってきたのにも気付かない様子だった。旅館へ帰ってから何かしら還俗したような気分になり、出発から今日までのこと、自分の こと、家族のこと、会社のこと、私と関わってきた人のこと、様々のことが頭の中を駆け巡り、瞼は重く眠いのだが、神経は益々冴えなかなか寝付かれなかっ た。
朝方うとうとしていると、宿の女将さんの「食事の準備できました」という声に目がさめ、急いで着替え、朝食もそこそこに車のエンジンキーを回した。本日の 最初の札所、第四十三番『源光山明石寺(げんこうざんめいせきじ)』にカーナビをセットし、一つ大きく背伸びをし、両頬を両手でかなり激しく叩き、気合を 入れてスタートした。
源光山明石寺は山地にあり、その御本尊は千手観音で、正澄上人が開基したと伝えられている。現在は「めいせきじ」と呼ばれているが、本来の名は「あげいし じ」で、土地の人たちからは「あげいしさん」とか「あげしさん」として親しまれている。千五百年の間には、幾多の興廃が繰り広げられ、明治の時代に建立さ れた現在の本堂は、古色蒼然としており、深い歴史を感じる。
いくらか元気を取り戻した私は、この菩提の道場"愛媛"を心から満喫してみようという気持ちになっていた。少々やせこけた顎や頬のあたりを撫ぜてみると、 遍路旅に出てから一度も剃っていないヒゲの感触が心地よかった。