或る二世経営者のホームページ ~香山廣紀 かく挑み、かく歩む。~

或る二世経営者の挑戦


終章 ~それからの「或る二世経営者」~


プロローグ

今日は平成25年1月10日である。

 私は平成24年3月末日もって「サンホーム兵庫」の経営の第一線から退いた。様々な意見や忠告や惜しむ声もあったが、私は冷徹を装い無視し続けた。私にはどうしてもやりたい事があった。今が私には絶対譲れないギリギリの年齢だった。私がこれから取り組もうとしていることが、形になるのに15年位を要するであろう。自分の寿命など知る由もないが、残りの人生からして、肉体的にも精神的にも健全な状態が保たれる事が可能なのは、せいぜい79歳までと考えると、(今)しかないのである。

 平成23年9月に、新光コーポレーション(新光建設から分社。この事については後日詳しく記す予定である)のモデルハウスであった「THE家」を買い取り、平成24年5月から改装も含めて茶室を増設した。この場所こそが、これから私のライフワークの一つである私塾NPO法人「志澤塾」である。

 平成24年3月にサンホーム兵庫関連(リフォーム兵庫、カーペンターズ兵庫、ガーデン兵庫)全ての企業の経営から身を引いた私は、4月~5月、お四国へ歩き遍路の旅に出た。お遍路については草書の欄で詳しく書き記す心算でいるが、想像を超える様々な状況に出くわしながらも、兎に角徳島県と高知県は打ち終えることが出来た。5月の下旬には、サンホームグループの社員が私の為に海外で(台湾)送別旅行を企画してくれた。私のような我侭で自分勝手な者のためにと、私は大感激で危うく涙が毀れそうになった。台湾から帰国し、6月は様々な行事をこなした後、7月の初旬、203高地と張作霖との邂逅の旅に満州を訪れた。(草紙の欄に掲載)次に念願であった『ブータン王国』(これも草紙の項に記載)を訪問し、『幸福』を確認することが出来た。また八月には塩野女史の名ガイドのもと(彼女の著書「ローマ人の物語」に魅せられてという意味)古代ローマを享受した後、ウィーンに住む長女とローマで落ち合い、ナポリ、アマルフィ、フィレンツェ、ベネチアと周遊し、娘と共にウィーンに戻り、モーツアルトに会うためザルツブルクを訪れたりして、約一ヶ月間日本を離れていた。

 帰国してからは多忙を極めた。まずNPO法人「志澤塾」の認可に向けての詰めをしなくてはならなかった。次いで講師陣の最終確認や、パンプレットの作成。新規に採用した事務員兼秘書の教育とコミュニケーション(結果的には決定的な価値観のずれで11月に解雇する羽目になった。考えてみれば長くビジネスの社会に身を置いたが、従業員を解雇したのは初めての経験であった)。茶室の完成(私の思いがなかなか伝わらなくて二割程度妥協する空間になってしまった)10月のシニアクラブチャンピオンに向けての準備。(ジョイックスゴルフクラブのシニアチャンピオン二連覇を達成し、その年の関西地区におけるシニアチャンピオン大会で8位入賞する)あっという間に二ヶ月が経過し、10月21日に正式にNPO法人が認可された。その頃、25年4月~9月までの講義テーマは決まっていたが、11月に事務員がいなくなったため、塾生の募集を始め、その他の事務処理が遅々として進まない状態が続いた。そんな中、11月23日には茶室『波裡庵』のお披露目の会を開催した。(『波裡庵』の謂れは、裏千家では「守・破・離」が茶道を志すものの原点とされており、「守」即ちあらゆる伝統や格式を守り、全てのお点前を習得したしかる後、「破」全てを一度破壊し無になり、「離」また新しい茶の心を尋ねる、と言う教えが根底に流れているのだが、私は或る時に「守」は私には無理と悟ったのである。故に「破・離」でいいのではと考え、それを捩って新しく完成した茶室を『波裡(はり)(あん)』と命名し、自分流に楽しむことにした。この考え方は茶道においては全く邪道であり、何一つ正当性がないことは、私自身承知している。真摯に茶道に取り組んでおられる方には、どうか無視していただいて、お許し願いたい。12月23日には、私がお茶を習っている「河島社中」の皆様に、『波・裡・庵』のお披露目会を催した。明けて25年1月7日にはサンホームグループの初釜を企画し、思い思いに楽しんでもらった。

 今現在(25年1月10日)正式に決まっている塾生は5人である。4月開講に向けてせめて20人位はと考えているが、また一方では希望者だけでも良いかとも思っている。新しく事務員兼秘書(お茶を習っている仲間の人にお願いをして来てもらう事になった)も決まったので、勝算は何一つないが、前に進んで行く決意を新たにした昨今である。